老人学その2-老人とは

 

前回(昨年6月)は,「老人学,その1」と称して,老人のおかれた状況を述べました。今回は,「老人学,その2」として,老人とは何かの一般論を,やってみます。

 

 その前に,老人を考えるための道具立てとして,次の2つを準備しておきます。

 

 <1> 老人に根源的に関わる話題は,死,あるいは,生と死の関係ということでしょう。それを論じるには,「生(生きている)」,「(死(死んでいる)」という概念をどう理解するかから出発しなければなりません。

 

 まず,(人間が)「生きている(生)」とはどういうことでしょうか。人間は,意識をもち,それによって,自覚的に周辺と関わり(認知),また,自分自身の行動を,ある範囲で,自分でデザインし(意志),認知や意志の結果について,好悪の評価を自分の中に抱きます(感情)。それが人間の生の特性です。それによって,人は,認知的に,行動的に周辺と関わり,感情として周辺を評価し,周辺を含んだ全体として,周辺と切り離せない形で,人間の生活は成り立っています。ですから,人間の生を,人間個体に内在的に考え,単なる刺激への(受動的な)反応とか,種の保存というような,生物的な意味での「生命」(個体の能力,機能)に限定して理解したのでは,不十分なのです。そして,ここで問題にしているのは,(生物一般ではなく,)我々,人間の具体的な生と死ですから,生を,広く,人間が人間としてそこにあること自体,人間生活の全体,もっと言えば,人間そのもののこととして広げて扱うのが適切と思えます。その立場に立てば,人間の生とは,(人間という生物に属する個体の,内在的な,一能力,一属性ではなく),「私たちを含んでここにあるすべて」,「私たちに与えられているすべて」のことになります。身近には,「この世界」,「現実」,「実在」,「自分」などの言葉が指し示す内容なのです。その内容を,あえて,構成的に示せば,生とは,①私たち自身のあり方(内面性),②私たち相互の関係(社会性),③周辺の事物(環境),の総体ということになります。これは,旧来の,「生(生きていること)」を,人間に内在的な,神秘的な,実体とする見方(その場合は生命などと言われる)に対して,「生(生きていること)」を,外から見えるものとして,行動的にとらえる見方なのです。

 

 それでは,「死(死んでいる)」方は,何なのでしょうか。一般には,生の否定として,生が,「そこにあるすべて」「この世界」「現実」「実在」「自分」のことであるとすれば,それらがそっくりなくなってしまう事態ということになります。

 ただ,この場合,一般には,我々の生活も,また,ものの理解(認知)も,生というこの世界(現実,実在)の中でのことがらであり,生の外のものではないとされますから,生活も理解(認知)も,生の中のことがらについては成立しますが,生の外のことがらについては,同じ意味で成立するとは言い難いのです。もしそうとすれば,生自体の否定であって,生の外部のことがらである死を,理解することは,(内部のことがらに対すると同じ意味では,)できないことになります。ですから,「死んでいること(死)」,すなわち,「そこにあるすべて」「この世界」「現実」「自分」がそっくりなくなってしまう状態(「非存在」)は,生の中では,(つまり,自分にとっては,現実としては,実在的には)本質的に理解できないことがらになります。生の方は現実のことだからよく分かりますが(逆に,分かるとはすなわち現実である,「=現実」ということです),死の方は,現実の否定であり,したがって,「分かる」の否定でもあり,分かることの対象外ですから,死については,何も分からないのです。そのことを承知しながら,「死」をあえて表現するとすれば,「分からない(不分明)もの」「(それでも存在すると仮定すれば)何か混沌なるもの」と言わざるを得ません。死に対する恐怖というような思い入れは,分からないことに対する恐怖と同種のものなのでしょう。

 

 そうとすれば,死の問題とは,そういった死が一体何であるのか,すなわち死それ自体の問題ではなく(不分明だからその答えはない),生とどう繋がるか,生との関連においてどのような意味を持つのか,(優れて,)生とどう繋がるかの問題なのです。

 

 <2> 準備として,もう一つ,一般論をしておきます,2つの概念の関係についてです。概念とは,一般には,言葉において,単語(名詞,形容詞,動詞など,自立語)によって示されていることがらの内容ですが,論理学としては,概念とは,(外延的に捉えれば),そこに話題になる個体の全体領域(話題領域)があって,その中から,ある任意の個体の集合を取り出した部分集合(あるいは,それを可能にする区分け)のことです(これが一番わかりやすい説明です)。そう考えたとき,2つの概念(集合)の間には,次の5つの関係が成り立ちます。

 

2つの集合(概念)をA,Bとして, 図示すれば,

 


このブログの画面では,図が描けませんので,下の集合論の記号から察してください。)

 

             ②          ③          ④         ⑤

 

  ・ AB        左がA,右がB      中の丸がA        中の丸がB        左がA,右がB

                     外の丸がB          外の丸がA

 A=B)              (AB)         (AB)           (BA)          (A B ⍉)

 

  上記の関係を,言葉で言えば,

      ABが同じものである,(言葉の言い換え) 例;概念「生物」と概念「生き物」

      ABは,全く別物である, 例;「動物」と「植物」,

      ABに含まれる, 例;「動物」と「生物」

      BAに含まれる  例;「動物」と「生物」

      ABの一部が共通である, 例;「陸に棲む生物」と「海に棲む生物」

 

 その上で, Aを「生きている」(生),Bを「死んでいる」(死)として,「生」と「死」を①~⑤に当てはめて,具体的に両者の関係を考えてみますと,

      生と死が全く同じものである,区別がつかない,言葉としての同じことの言い換えである。

 例えば,「生死一如」というような特別な立場です。

      生と死は全く別物である。

 例えば,「生はこの世のことがら,死はあの世のことがら」,「穢土と浄土」

      生(A)は死(B)に含まれる。

このことは,

 集合算の記法では, {A⊆{B} (ABの部分集合),

 論理記法では,    AB  (AならばB),

 と書けます。

 さらに,論理学的には,「AならばB」は,「AであってBでないことはない」,「AであるためにはBでなければならない」,「BでないならAでない」と読み換えることができ,こういった場合,「BAの必要条件である」と言います。

 つまり,③の示すのは,「生きているものは必ず死ぬ」,「死なない生はない」,「生である限り必ず死ぬ」,「死は生の必要条件である」,「生は死ということがらの中の一部である」,「生は死の一種である」,ということです。

      ③と対照的に,生きること(A)の中に死(B)があることになりますから,死は,生のもつ性質の中の一つ性質として,ちょうど    病気のように,人生の経緯の中の一こまになり,したがって,死なない生もあることになります。後者を永遠の生と呼んだり,   そこに不老長寿を求めたりするのはそれです。

 ⑤     生死に関して三分法が成立し,生があって,死があって,その間に,生と死が混ざった中間状態(仏教では中有などと言いますが)があるということになります。これも通俗によくある死生観です。

 

* 念のために,論理学上のことを一言付け加えておきます。上で,生と死という概念の関係を扱いましたが,概念を外延的に捉えたとき,概念とは個物の全体領域(全体集合)の存在を前提とし,その部分集合のことでした。しかし,ここでの,生や死という言葉(概念)は,見かけ上は,個物の集合を示してはいません。ここでは概念を,外延,集合ではなく,内包的に,意味において,扱っているからです。しかし,内包的な関係(意味的関係)は,外延的な関係(集合の関係)に移し替えることができます。いろいろな表現があり得ますが,例えば,「生」を「生の(生きている)場合」,死は「死の(死んでいる)場合」と書き替えるのです。別の分かりやすい例でいえば,「努力すれば成功する」というようなことを言いますが,努力するも成功するも集合ではありません。しかし,「努力する場合は成功する場合である」というようになおせば,集合の関係として理解できます。上記の③「生は死に含まれる」は,「生きている場合は死んでいる場合の一部である」「生きている場合は死んでいる場合に含まれる」と読み換えるわけです。

 

  以上の<1><2>を前段として,老人とは次のようなものです。

(老人とは次の3つの要件を満たすものである。その要件を満たすものを,老人と呼ぶ。老人に成りたかったら,次の3つを受け入れなければならない)

 

その1  「生」と「死」の2つの状態をあわせ持つ。

  •   ただし,ここでの「生」とは,前段に述べたように,「現前のすべて」,「自分,世界,現実,実在」と言い直せるようなことで,「死」とは,それと異質な,一般にはその否定としての,あえて言えば,「非存在」,「不分明な混沌」です。
  •   その上で,「生」と「死」,すなわち,「現前のすべて」と「非存在(不分明な混沌)」の関係として,前段に述べた分類の中で,③,すなわち,「生」は「死」に含まれる(生は死の一部)をとります。「生きている場合は死んでいる場合の一部」である,「生の必要条件としての死」「生,現実」(存在)は,「死,不分明な混沌」(非存在)の中に成立する,ということです。
  • そのような前提の下で生きている人間が老人ということになります。2つの状態をあわせ持つとはこの意味においてです。

 

その2  通常いう人間の中から老人を除いた部分を仮に人類と呼ぶことにします。老人と人類は別な種である,種において違う(こう捉えるべきである)。

  • 種において違うとは,異なった分類項目に入るということです。例えば,犬と猫。

 

その3  老人は,人類に,正確には人類の持つインフラに,寄生して生きている。

  •  人類の持つインフラとは,物的ものだけではなく,社会システム,倫理,文化を含んでのことです。

 

3つの条件を,もう少しくわしく説明しましょう。

 

まず 「老人は生と死の二つの状態をあわせ持つ」(その1)に含まれる意味です。

  •    多く,「生」と「死」の関係は,

        生と死は独立した二つの別なことがらである (②),

        死は生の中のできごとである (④),

        生と死とそれを繋ぐ中間の状態を認める(三分法) (⑤), この3つのどれかにおいて考えられています。

         ②では,生と死は全く別なことがらです。例えば,死に伴って,生にはなかったものとしてあの世や天国が現れることになります。

        ④では,死を,病気のような,人生のなかでの一つの偶然的なできごとと捉えます。

        ⑤では,生と死の中間的状態(この世からあの世への途中の状態)があるとされます。

 ②,④,⑤に共通な理解は,死を,現実的な,経験的な,実在的なことがらとして,生と同じカテゴリーの中のものとしていることです。もとより,それが,認識的には正当なやり方ですが,ただ,それに従うと,生と死についてアポリアが生じ,そして,その立場のもとでは,そのアポリアは解けないということです。

  •    一方,前段によれば,「生」とは「現前のすべて」「現実」のことでした。(言いなおせば,現前のすべて,現実を生と呼ぶのです,それは現実というものの定義,あるいは,生の定義といっていいでしょう)。一方「死」は,生の否定であり,「現前のすべて」の否定として,「非存在」「不分明な混沌」でした。それは,現実とは異質な,現実を離れたものです。この意味で,両者は異なった領域のことがらで,両者を含むような個体の全体領域は考えられないわけで,いわばカテゴリーが異なります。例えば,カテゴリーの違う「人間」と「バロック音楽」について,比喩的に,「人間とはバロック音楽である」(①)とか,「人間はバロック音楽ではない」(②)は言えるかもしれませんが,包含関係は言えないわけです。ですから,③のように,カテゴリーの違う生と死の関係を集合の包含関係でいうには無理があるかも知れません。人間と哺乳類のようにはいかないのです。
  • 生と死に関して③をとることは,生と死はカテゴリーが違うことを認めた上で,死は,生の必要条件としてあると主張することです。しかし,本来,死は,生のように実在的,経験的なものではありませんから,生と死はカテゴリーが違っていて,事実としての両者の包摂関係(集合で言えば包含関係)は言えません。ですから,ここで言われている内容は,事実的な包摂関係ではなく,死は,生の必要条件であるという,それだけなのです。死は生に対して,いわば論理的に要請された概念ということになります。かく,死は,生の必要条件として,生を含む何ものかとして要請されるというだけで,現実(実証的に発見されるもの,経験的に探すもの)ではありません。現実であるのは生だけなのです。ただ,その生が,論理的な要件としての,必要条件としての死のもとにある,そういうふうに仮定する,それだけなのです。このように,「死」は論理的概念(要請)で,現実的概念である「生」とはカテゴリーが違いますから,経験的,実在的意味で,生が死に変わったり,死とは生の一形態であったり,生と死の混合状態が存在したり,人間を解剖したら生の部分と死の部分が別々にあった,というようなことはないのです。
  •  ③に従えば,死は生の必要条件ですから,死なない生はありません。ということは,(④と逆に,)生の方が,死という全体の中での状態であるということです。その意味で,人が生きていることは(生の中にあることは),それは同時に,死の中にあることです。ただし,ここで,あくまでも,死は,現実的ものではなく論理的な要請なのです。(現実的なのは生のみですから)。
  •  ただ,このことは分かりにくい。生は現実,死は現実ではないにもかかわらず,③をとるならば,生は現実でありながら,死の部分として,現実的ではないことになります。これは矛盾です。生の背後に,必要条件として,現実的でない不分明な混沌としての死を置いたために生じた矛盾といえます。(この矛盾を,現実の立場から解こうとすると,「矛盾的自己同一」とか,「即非の論理」とか,「根源的直観」とか,そういう説明が必要になってきます)
  • 矛盾,確かにその通りですが,ここは,以下のように考えると説明がつくと思われます。(あるいは,こういった説明の仕方がその事柄の意味といえます)。

 まず,「現実的」の意味するのは何かです。「現実的」という言葉には,2つの内容が含まれています。一つは,①「実体として(A)」,もう一つは,②「存在する(B)」です。概念「現実的」の中には,AB2つの内容が入っているわけです。

「実体」(A)とは,「最終的な根拠を持った,否定できないもの(実在)」,「最初かあるもの」,「作られたのではないもの」,という意味です。

「存在する」(B)とは,「そのものを他と区別する区分けがなされている」,「概念として成立している」,ということです。仏教では,前者を自性,後者を分別と言います。

 現実は,まず,(ⅰ)区分けとして成り立ち(B),次に,(ⅱ)実体として認められた(A)ものです。普通に私たちが考えている現実とは,こういうものです。任意の物体,例えば,「この机」について考えてみてください。まず,この机は区分けで(概念で),それが本当にそのようなものとして存在して(実体であって),「この机」は現実的となります。概念だけなら,観念的ということです。

生について,通常の理解では,生は現実そのものとして,ABの二つの性質を持つことになります。そして,その上で,③をとることによって,その生は,死の中のものとして,その現実性は否定されるのですが,その際否定されるのは,現実性の中,Aの方であって,Bは否定されないで残ると考えたらどうでしょう。何故なら,Bも否定されると,そこには何もないことに(何も言われなかったことに)なってしまう,何物もなくなってしまい,理解も,説明もなくなってしまうからです。そこを,「生」は「死」を必要条件としているとすることによって,生は,実体としては否定されるが,しかし,区分けとしては(存在としては)成立している,そう考えるのです。「実体ではないが,しかし,存在はする」とは,イメージとして言えば,仮(設)としてあるということです。仮(設)とは,存在はするが非実体的にということです。

  •   「仮(設)」あるいは「非実体的な存在」の特性は,

 ) 作られたものであるということです。実体としてもとからあるものではないから,どこかに作られた,(区分けされた,成立した,存在することになった)という出発点を持ちます。ただし,誰によって作られたかの問題は本質的ではなく,大切なのは,もとからあるのではない(仮設,非実体的な存在)ということだけです。         

 (ⅱ) 実体としてもとからあるものではなく,作られたという出発点を持ちますから,本来的な固定性を持ちません。原理的には,どうにでもあり得るわけです。これでなければいけないという一意性(根拠)は,アプリオリには,ありません。ですから,白が黒になっても(白が黒であっても)論理的にはかまわないわけです。生は,死を必要条件とすることによって(実体性を失うことによって,仮設となることによって)そういった権利上の多様性(非固定性)を持ちます。

 (ⅲ) 実体としてもとからあるものではないとは,無根拠にある,と言ってもよいでしょう。

   A(生)がB(死)に含まれるというとき,現実であるA(生)から出発してB(死)を考えると, B(死)をも,現実的として考えないと,つじつまが合いません。これは旧来の立場です。その際は,死(B)を生と同じく,現実のものとすることから,死の問題の解き難さが出てくるのです。一方,非現実であるB(死)から出発して(Bを必要条件として),A(生)を考えると,A(生)も非現実的ということにならざるを得ません。しかし,A(生)は全くの無ではありません。我々の生活は現にそこにあるからです。そこで,Aは非実体的な存在として,仮設であるということになるのです。

  •    このように,生が,死という領域の中で自覚されるようになったことは,この形で,生が死と繋がったことです(あるいは,死が生と繋がった)。死の問題の困難は,死が生と断絶していたことから来ました。そのことが生に不安をもたらしたのでした。死が生と繋がれば,死は不分明で混沌であったとしても,生と隔絶したものではなくなります。 生に連続して捉えられます。生と死のつなげ方には,いろいろなやり方があり,それが,様々な死生観ということなのですが,ここでは③をとるということです。
  •   ③において,生は,死の中にあります。それは,生を中に含んだ死という全体の中で,生を考えることです。生をその一部とした全体を,外に意識した,そのような全体に立ったということです。しかし,そこは,このように全体に立つことによって,死とは何かが明らかになったということではなく,逆に,生というものが,従来の理解とは違ったものになったということなのです。(この全体を,私は,他のところで,「開かれた全体」と呼びました。ことがらを理解するには,根本的に2つの立場があって,一つは,ことがらを,要素構成的に,法則普遍的に,考える,もう一つは,不分明な全体を出発点に,その中にことがらを置いて考える,の2つです。前者は,対象を固定的,実在的に捉え,後者は,仮設的に捉えると言えます。ここでは後者をとるということです)。
  •   生は,死という,「不分明,混沌の全体」の中にあることによって,全体に融合して,全体の部分として成り立つものとなります。全体が,必要条件であり,出発点であるとはそういうことです。生は,要素構成的に,普遍法則的に説明されるべきものではなく,不分明,混沌の全体の中に,新たに成立するものとされます。言い直せば,旧来の理解と違って,私たちは,(死という)全体の中で,根拠なく,ただ生きているだけなのです。私たちの生は,最終的要素や世界の法則という根拠によって成立したものではなく,それ自体が出発です。ですから,それ以外にありようはなく,他の選択肢はなく,逃げ場所はどこにもなく,ただ,生きているだけなのです。ただし,このことによって,生は,旧来の理解におけるよりも,私たちに親しいものになってきます。直截に,純粋に,くもりなく,はっきりとよく見えてくることになります。旧来の理解のもとでは,生は,要素からの,法則からのいわば経緯を持った構成物でしたが,こちらは,与えられたまま,ありのままといってよいものです。これは,道元ふうにいえば,「有時の而今」(即今)とか「現成公案」(ありのまま),親鸞ふうにいえば,「即得往生」とか,「自然法爾」というようなことなのでしょう(逆に,これらの語は,こう解釈したら分かるだろうということです)。これは,生を独立したものではなく,死と繋がったところで,不分明,混沌の中にあるものとして見ることから派生します。

 

次に,「老人は人類の一部ではなく,人類とは別な種である(種が違う)」(その2)の意味です。

  • 通常は,老人も,人間の一種だとされます。人間の中に,幼児もいれば,青年,壮年,老人もあって,それぞれ特性があって,区別されるが,皆,人間であるということにおいては共通である,とされています。だから,老人も人間だということです。それに反して,ここでは,老人を,老人以外の人間,人類と区別して,人類から切り離し,別な種類のものだと考えようということです。種が違うとは,馬と牛が違う,鳥と魚は違うというようなことです。
  •    ただ,老人が別な種であるとは,人類が,連続的に,老人という別の種に進化(退歩)するというのでもなく,老人は人類の一生の中のひと時の一つの位(状態)なのでもない,人類と老人の間には,断絶,飛躍がある,ということです。その断絶の意味するのは,老人はもと人類であったとしても,老人という種に移った(?)とき,人類でなくなった,人類としては一度死んでいる,だから,老人は,人類としてもう一度は死ぬことはない,種が違うとはそういう意味です。
  •   快不快とか,幸福不幸とか,成功不成功とかは,そしてそれに基づく序列づけは,人類における価値意識です。種の違う老人のもとでは,そのような価値意識は成立しません。老人(種)においては,すべてのものは,人も,物も,みんな同等で,そのような区別は成立ないのです。何故なら,死が必要条件である(すべてのものは死ぬ,すべてなくなってしまう),ことがらが永続しないという前提の下では,如何なる価値も成立しないのです(ですから,道徳の成立のためには,魂の不滅が要請されるというKantの主張は正しいのです)。したがって,人類であった頃(?)のすべての序列的なものは,老人種では何の意味もありません。それらは,老人になったときに,みんな捨てられるのです。(老人とは,みんな一緒にゴミ箱に投げ込まれたようなものです,ごみ箱の中では,すべてはゴミですから価値的区別は成り立ちません)。人類の持つ概念体系,価値観は,老人(種)においては,すべて捨てられている,意味を持たないものになっています。時に,老人においても,いまだ,自分を人類だと思っている人,価値の普遍性を捨てられないでいる人,人類のいろいろなインフラを俺のものだと思っている人(その成立は己の功績だと思っている人)がいますが,それが,老人当人についても,人類についても,諸困難成立の源泉なのです。

 

「老人は,人類のインフラを利用して,その中で,(それに寄生して)生きる)」(その3)の意味です。

  •  老人は,人類とのインフラの共同使用によって,人類とつながっています。それが唯一の老人(種)と人類の接点です。
  •  ただ,ここで寄生すると表現しても,必ずしも,悪い意味とはかぎりません。寄生虫と本体の関係は,寄生という表現にこだわらないことにすれば,単に,関係の一つのあり方なのです。

 

以上をまとめますと,

 

1)     「生」とは,現前のすべてのことです。「死」とは,それらが消滅した状態です。(ですから,後者については,説明し難いのですが,でも,イメージあるいは言葉がないと,話が先に進みません。そこで,死とは,「不分明,混沌たる全体」としておきます。)

2)     生と死の関係としては,多く,

        「死」は,生の外の異種のことがらである(②)か,

        「死」は,生の中の一つのできごとである(④),

として,捉えられます。しかしながら,前者では,死は生と無関係になりますし,後者では,死は,例えば病気のように,生における一現象に矮小化されます(死んだのは偶然で,単に運が悪かったのだ)。両者とも,生が,全面的に,内的に,死と繋がりません(②や④のような言い方は,むしろ,死を生に結びつけようとしています)。生における死の問題は,生の死に対する繋がりを見いだすことによって,解決されるのです。

 3)     そこで,前述の③をとって,生を死の一部分として,死を生の必要条件として考えることにします。これは,自分が(生が),死の中にあると承知することです。こういう形で,生は死と内的につながることになります。死とは,不分明な混沌でした。生は,不分明な混沌の中におかれることによって,(旧来のように確定的な要素や普遍法則から構成されたものではなく),それ自身,新たに作られたものである,それ自身が出発点である,と解釈されることになります。そのような輪郭を与えられ,ありのままに,見えてきます。生だけを考えていた限りでは見えなかったことがらです。死は生のなれの果てではなく,生の誕生の条件なのです。この意味で,死の問題は,本当は,生の問題なのです。

4)     こういったことが納得されて,老人の生は,人類の生とは異なったもの(別の世界)になります。両者は断絶したものです。しかし,そのことによって,人類とは違った(存在として,価値観において,生活の仕方において),老人の生活があり得ることになります。

5)     老人としての生活の仕方は,人類に寄生している(インフラを共有している)という点で,人類の生活の仕方と似ています。しかし,意味合いが根本的に違ってきます。

6)     それでは,以上の私の説明は,正しいものなのでしょうか。そういった追求はしなくてもよいのです。有体に言えば,要するに,この説明は,生と死をつなげるための,一つの物語なのです。本当かどうかよりも,これによって,生と死がつながる(他のやり方もあったとしても),死の問題に一つの解決が与えられるかもしれない,そこが肝要なのです。

 

以上のようにして,ここまでの議論は,結局は,生と死を結ぶ一つの物語ですが,この物語作成の種明かしは,次にあります。

  •   「生」と「死」の間に,半分生きていて,半分死んでいる「老人」という中間帯を考えることによって,生と死の間の隔絶,段差がある意味で埋まる,生と死が連続になります。この連続性は,生における死の問題の解決にあたって重要なヒントなのです。
  •   人類から違う種である老人に移ることは,(人類として)一旦死んだことです。もし,死とは人類における(生における)問題ならば,老人においてことはすでに終わっていて,老人には死の問題はないことになります。
  •   また,老人のこういったとらえ方は(特に老人は人類ではないということは),老人の生き方に,一つの示唆を与えます。老人は,人類と同じ生活をするものではないのです。
  • ただ,老人をこのように捉えるについて,この立場と,通常の立場の間には,生と死の関係づけについて,死の解釈について,根本的な枠組みの違いがあります(通常は②④,こちらは③)。ですから,ここで述べた立場,③に基づいて生と死を理解するためには,生と死をどう見るかについての,②④から③への,いわばパラダイムの転回(パラダイムシフト)が必要です。通常の②,③に基づく死生観のもとには,いくつかのアポリアが生じます(それが死の問題なのでした)。その解決には,死生の理解に対するパラダイム変換が必要です。そうでないと,生の内部だけでは,問題は解決しないのです。あるいは,そのようにして問題は解決されるのです。永遠の生,死の否定,あるいは,「不老長寿」を求めて,実証的,経験的,希望的に,妙薬を山奥に探すというリアリズムではなく,死の問題はパラダイムの変換の問題として,論理の問題として,解決されるだろうというのが私の立場です。
  •  以上,素直な,まじめな老人連からは,あるいは,通俗的な立場からは,自虐的な老人観と言われるかも知れませんが,逆に,こういった死生観,老人観に立つことによって,また新しい生活が開けてくるのだろうということです。

 

以上,いささか論争的な,アイディアの提示でした。

 

しかし,それはそうとしても,いかにも,勝手な,恣意的な議論で,正しさの根拠が示されていない,勝手な言い放しではないか,都合のいい物語に過ぎない,と批判する人が,少なからずいると思います。そういった批判に対しては,次のことを準備しておきます。

  • 文系の探求は,最終的には,こちらの希望に合わせて,上手に物語を作ることです。その物語がうまくできていれば,それが真理なのです。(物語も,真理も,生活の道具です。そのことはまた別に論じます)。その辺は理系のやり方とは違います。ここでの議論は,文系の議論ですから,第一に,出発点の問題自体がはっきりしていません,問題自身にあいまいさがあります。さらに問題解決の方法が事前に統一的に与えられているわけでもありません。ですから,問題をはっきりさせながら,それを解く方法を探しながら,結局は,最適な物語を作るということなのです。ただし,一般に最適とは目的に合わせて最適ということでしょうが,ここでは目的もはっきりしていないわけですから,最適と言っても暫定的にということになります。ちょうど時宜を合わせて,「理研」とかO氏の話題が喧しいのですが,あちらと違って,ここには,実験ノートも権威もありません。自由放任です。それでも,そこにできの良し悪しは言えることは言えるのです。(ただ,理系といえども,物語作りであり,皮をむいてみれば,同じ構造であるというのが,こちらからの言い分ですが)。
  • 認識,認知について,通常は,①人間には,身体的,精神的(神経的)に,正しい認識能力(理性)が与えられており,それに従って認識が行われる限りでは,その認識の結果は,それら(理性)に根拠づけられて,真理であるとされます(ときに間違いはあるが,それはその機能が正しく用いられなかったということです)。また,もう一方,②認識の対象は,一意であり,それ自体として存在するとされますから,それを根拠として,その対象に合致した知識は,真理である(実証)とされます。内的な能力(理性),実在する外的な対象,これが,真理の根拠になって,認識は,真理として,成立する,とされます。
  • これに対して,認識は,認知は,都合のよい物語の採用である,というのが対極の考え方です。例えば,男子というものがそこにあったとして,それはなぜ男子かといえば,生理的な構成要素がこれこれであるから,こういう機能を持つから,そのことに基づいて男子であるというのが,旧来の説明です。これに対して,前に言及したことのある一般意味論などでは,男子とは力強く,勇敢に振る舞うものであるという物語(イメージ)があって,ある人間が,いわば男子というイメージを受け入れ,そのように行動しようとするところに男子は,男子(男子という物語)として成立する。(男子のイメージを受け入れたいわば男子は,女々しい行動はとらないのです)。つまり,男子という物語の作成,受け入れが,男子という認識,生活形態成立の基盤なのです。男子だから男子らしく行動するのではなく,男子という物語を受け入れるところに(男子らしく行動するところに)男子が成立するのです。そして,その物語が,うまくできていて,広く生活において役に立てば,それが真理である,そうなります。
  •   言ってしまえば,理性に根拠づけられた,あるいは,対象に根拠づけられたとされる,いわゆる真理も,よく考えれば,なぜ,理性や,対象に根拠づけられているならば,真理なのか,その説明のところは不明です。とすれば,その真理の代表である科学も,真理であることの根拠を最終的には示すことのできないから,(多分,それなりに優れた)物語に過ぎないことになります。ただ,現状,人類の多くがそれに従っている,ということなのです。
  •  ですから,生き死に,のような,これまで学問が(科学を代表として),伝統的に,メーンテーマとして扱ってこなかった領域については,なおさらに,物語の制作は意味があるのです。それは真理に変わるものではなく,それが真理そのものなのです。
  •   ただ,このあたりのことがらについては,いささか込み入りますから,また別に扱うことにしましょう。

 

最後に,もう一つ,言い忘れたことがありました。ここで,「老人は死という必要条件のもとで生きている」のだと言いました。でも,死を必要条件としていることは,老人のみならず,人類についても同じように言えることです(死なない人間はいません。ただそのことに深刻に気づいていないだけなのです)。とすれば,人類もまた老人と同じで,この点から,人間について,老人,人類の区分けは成り立たないことになります。そして,ここでは老人とは何かを問題にしましたが,人間とは何かについても,死を必要条件としていることは同じですから,人類も(つまり人間はすべて))仮という在り方をするという同様な答えが可能です。ただ,一般的には,生と死の関係について,②,④を前提にして議論をしますから,こういった考え方は異質とされます。

 

以上,いろいろ申しました。しかし,こうした見解は,一般的には,受け入れられないようです。一般論としては,生き死にのみならす,ことがら全般について,以下のように考えるのが普通だからです。曰く,

「こんな議論をして,どんな意味があるのか。そんなことを考えなくても,人並みに,普通にやっていけばよいのだ。生に対しても,死に対しても,問題が生じたところで,対症的に対処すればよい。すべてのことがらについて,結果がよければ喜び,気に入らなければ嘆き叫ぶ,それですべてで,生死に限らず,余計なことは考える必要はない。その場その場で,自分の利益を考えながらやって行けばよい。」

 こういうことです。こういった立場に立った上で,将来に対して,(過剰に)悲観的ならば,それはニヒリズムになり,将来に対して(空疎に)楽観的であれば,それはいわゆるヤンキーと呼ばれる層が体現している思考方式になります。

 

生き死になんかどうでもよいではないか,こう言われれば,これは強い立場で,上に述べた,か細い物語などは,吹っ飛んでしまいます。私なども,生とか死などといろいろ考えることなど(無意味なことは)止めて,要するに,それぞれの好みに応じて,例えば,「飲んだくれて,路上で死んでいけば」,それはそれで愉快かも知れないと思います。道徳的には,個人としては,みっともなくとも,だからと言ってそれが何だ,究極的には何の差支えもないのだ,と言われれば,その通りと心から考えます。それについては,最近,『独居老人スタイル』(都築響一著,筑摩書房)という本を読んで,さらに確信しました。

 

にもかかわらず,上記のような物語を考え,死を必要条件としたうえでの生を考えようというのは,そのことによって,また,新しい生が見いだせるのではないかということからです。あるいは,生きている以上は,始末をつけて,生きていかなくては,ということなのです。

 

この問題については,私自身,昨年6月以来,「老人学その1」に続いて,原稿として取り組んできました。もちろん問題は簡単ではなく,いまだ,納得しない部分もあるのですが,日にちが経ちましたので,とりあえず,試論として,いささか挑発的に,未定稿ではありますが,提示してみました。以上,その限界内のものです。

 

『楢山節考』における「おりん」の心意気の,哲学ヴァージョンと思ってもらったら,面白いかもしれません。老人になるとは,お山に行くということなのです。