ピダハンというアマゾンの少数部族,そして,ピダハン文化と信仰の問題

 

(承前)

前回のブログに述べたことは,以下であった。

 

今日,言語学において主流の,チョムスキー由来の理論では,「言語は,本来人間(人類)の根源的能力に由来し,その意味で普遍性を持ち,人間以外の他によらない,独立した,完結した体系である。その形態を普遍文法と言う。現実に個々の言語(文法)は,いろいろであるように見えるが,その違いは,普遍文法の枝分かれとして説明でき,通底する原理は一つであり,その意味でも言語は普遍性を持つ。」ということになる。

 

一方,この本の著者は,こうした演繹的,合理主義的言語理解に対して,言うところの実質に基づく言語理解を主張する。つまり,「言語はもっと広い人間の認知の中にあるものであり,アプリオリな普遍的文法などはない。類人猿を進化させたコミュニケーションの制約(ある定まった順番にしたがって口から現れてくる単語が必要であったり,ものや出来事を表わす単語のような単位が必要になったりする)と,特定の集団の文化から発生した言語がその文化から受ける制約とが,人間認知とあいまって生み出したものだ。」(翻訳書338ページ)と言う。ピダハン言語分析の結果として,ここに強調されるのは,言語は文化に規制されることである。ただし,もとより,ここでいう文化とは,文化一般,普遍的なもの一般的なものとしての文化と解釈すべきではなく(それでは元も子もないことになる),すぐれて個別的な,実際的な生活の仕方のことである。

 

さて,それでは,ピダハンの文化はどのようなものであって,著者は,何故,信仰を放棄したのか。前回,2)としておいた問題である。

 

まず,この本の範囲内で (私はそれ以外に情報を持っていない,そして,私の興味は,人類学的実証ではなく,ピダハン文化の私たちに示唆するものは何かである),ピダハンの文化の,つまりピダハンの生活の,具体相を,羅列しておきたい。それらを検討することよって,ピダハン文化は,我々の文化,生活と比較して,原理的,根本的に異質であること,また,我々の現今の生活において,あるいは行き詰まっている問題が,ピダハンの生活の中では,(つまり,ピダハンの文化を受け入れるならば,)問題にはならないという形で,解決されていることに,気付かされる。それは,また,現在の我々の生活の仕方(思考,道義,価値づけ,・・・)が,(通常思われているように)人間に普遍的なものなどではなく,したがって,そこで生じている問題にも普遍性はなく,ひとつのローカリズムに過ぎないことを示すものでもある。それは,我々の直面している問題に対して,ピダハンが与えてくれる,解決へのヒントでもある。

 

以下は,少々量が多いが,本文からの引用である(多少手を加えてある)。数字は翻訳本のページ。

 

       「何よりも印象的だったのは,みんなが,それはそれは,幸せそうに見えたことだ。どの顔も笑みに彩られ,ふくれ面をしているものやふさぎ込んでいる者はひとりもいない。」 14

 

         「ピダハン語には交感的言語使用が見られない。交感的言語使用とは,主として社会や人間関係を維持したり,対話の相手を認めたり,和ませたりする。(例えば,こんにちは,さよなら,ご機嫌いかが,すみません,どういたしまして,ありがとう等)。新しい情報を提供するものではなく,むしろ善意を示したり,敬意を表したりするものだ。ピダハンの文化はこうしたコミュニケーションを必要としていない(そういった交感は言語以前に成立しているのだから)。ピダハンの表現は,情報を求めるもの(質問),新しい情報を明言するもの(宣言),あるいは命令のどれかだ。」22

 

         (私の子供がマラリアにかかったとき)私と私が陥っている窮状にさして同情を示してくれない。この程度の苦しみは日常茶飯事であるということだ。(我々のように)必要な時に世界中のだれもが自分を助けるべきであると言わんばかりに振る舞ったり,身内が病気か死にかけているからといって日課をおろそかにしているところを見たことがない。しかし,ピダハンが死に無頓着という訳ではない。」 84

 

         「(交易相手から酒を振る舞われ,酔って騙されることがあったので,飲酒を注意したとき)ピダハンは,お前たちにいてほしい。だがおれたちに指図はするなと,言った。」98

 

         「ピダハンには身を守るための壁はない。村そのものが身を守る盾だからだ。村の住人は誰でも必ず同じ村のメンバーを助けに来る。またピダハンには,富を誇示するための家も必要ない。ピダハンの財産は平等だからだ。プライバシーを保つ必要もない。プライバシーに重きを置かないのだ。」104

 

         「ピダハンは道具類をほとんど作らないし,芸術作品はほぼ皆無,物を加工することもまずない。加工品を作るにしても,長く持たせるようなものは作らない。例えば何かをはこぶために籠が必要になったら,その場で濡れたヤシの葉で籠を編む。一回限りの使用のために。」「ピダハンはネックレスを作るが,それは,主に悪霊を退けるためであり,飾りという意識と美しさはおまけ程度。」106

 

         「ピダハンは狩りや漁をしたら,獲物はすぐに食べきってしまう。私たちのように加工してとっておくことはしない。食べ物というものが私たちの文化ほど重要視されていない。ピダハンは毎日は食べない。ピダハンは空腹を自分を鍛えるいい方法だと考える。日に一度か二度,あるいは一日中食事をしないことなど平気の平左だ。」(要するに,満腹状態が人間のあるべき状態とは考えない,飢えた状態が通常なのだと考える)110

 

         「ピダハンには食料を保存する方法がなく,道具を軽視し,使い捨ての籠しかつくらない。将来を気に病んだりしないことが文化的な価値であるようだ。だからといって怠惰なのではない。ピダハンはじつによく働くのである。」113

 

         「私は次第に,ピダハンは未来を描くよりも一日一日をあるがままに楽しむ傾向にあると考えるようになってきた。将来より現在を大切にするため,ピダハンは何をするにも,最低限必要とされる以上のエネルギーをひとつのことに注いだりしない。」113

 

         「儀式というものにおよそ欠けている。死人の埋葬はする。それは実務的で,儀式ではない。埋葬の仕方はその場に合わせて,腐り始めるのを避けるという合理性の所産であり,儀式ではない。性と婚姻にも儀式はない。儀式に近いと言えるとすればそれは踊り。踊りは村を一つにする」20

 

         「ピダハンはどんなことにも笑う。自分の不幸も笑いの種にする。風雨で小屋が吹き飛ばされると,当の持ち主が誰よりも大きな声で笑う。魚がたくさん獲れても笑い,全然獲れなくても笑う。・・・私が思うに,ピダハンは環境が挑んでくるあらゆる事態を切り抜けていく自分の能力を信じ切っていて,何が来ようと楽しむことができるのではないだろうか。だからといってピダハンの生活が楽なわけではない。そうではなく,ピダハンは何であれ,上手に対処することができるのだ。」122

 

         「ピダハンはごく限られた範囲しか親族と見なさない。親族を表わす語は数語しかない。親,親の親,同朋,息子,娘。いとこはない。近親婚の禁忌は狭い。」(要するに,3代も4代も前の先祖などには,会ったことも,実質的な関係もないから)124

 

         「ピダハンたちは全員が親しい友人に見える。これはひょっとしたら,肉体的な接触の濃さに関係しているのではないかと私は睨んでいる。離婚に対して後ろめたさがなく,比較的簡単に夫婦別れをすること,踊りや歌に乗じて乱交すること,思春期前後からあまりためらいなく性行為を試していることを考え合わせると,多くのピダハンが多数のピダハンと性交している割合がかなり高いと推測しても,的外れではない。ピダハンの関係はもっと規模の大きな社会にはない親密さによって成り立っていると考えられる(性交する者同士が同居する社会)。想像してみてほしい。同じ町内に住むほとんどの隣人と性交渉があり,社会全体がそのことを善悪の基準でみるのではなく,たんにありきたりの人生のひとこまと見なすとしたら―たんにいろいろな料理を試食してみたとでも言うように。」126

 

         「子どもが,母親の前で,焚火に近づいた,そして,火傷をした。母親は,乱暴に子どもを抱き起し,しかりつけた。普段子どもを慈しんでいる母親が,事前に注意しないで,結果が起こってから叱る。」

         「ピダハンには赤ちゃん言葉がない。子どもは一個の人間であり,成人した大人と同等に尊重される価値がある。子どもは世話したり,特別に守ってやらなければならない対象ではない。」

         「子どもはケガすると叱られる,そして泣くと,母親はぶっきらぼうに危険から引き離す。ただ,どの親も“かわいそうに,ごめんなさいね”などは言わない。」

         「ピダハンの子育ての哲学の根底には,適者生存のダーウィニズムがある。このようにして育てられた子供はいたって腹の据わった,それでいて柔軟な大人になり,他人が自分たちに義理を感じるいわれがあるとはこれっぽっちも考えない。ピダハンは,一日一日を生き抜く原動力がひとえに自分自身の才覚とたくましさにあることを知っているのだ。」129

 

         「ピダハンでは,出産時は親が付き添って手助けする。たまたま親が来られずに,川べりで一人で出産した女性がいた。難産だった。誰も助けなかった。その結果,妊婦も子も死んだ。ピダハンは,人は強くあらねばならず,困難は自分で切り抜けなくてはならないと信じているゆえに,婦人と子を見殺しにした。」130

         「ある母親が,子どもを産んで,しばらくして病気で亡くなった。ピダハンは,“赤ん坊は死ぬ,乳をやる母親がいない”と言って,助けなかった。それで著者一家は,その赤ん坊を,人口ミルクで育てようとして,ある程度回復させた。しかし,著者のちょっとの留守の間に,ピダハンは赤ん坊を死なせた。ピダハンには,死が見えるのだ。また,彼らには,こういった赤ん坊を無理に生きさせるのは,子どもの苦しみを長引かせるようにしか見えなかった。」135

 

         「だが私の子育ての手本には,しつけや暴力があった。ピダハンの子育てには原則として暴力は介在しない。その結果ピダハンの若者は傍若無人だ。マナーもない。破天荒である(だからといって実際に何か困ることがあるのか)」

         「しかし,ピダハンの若者には引きこもりはない。自分のとった行動の責任から逃げようとしたり,親の世代とは全然違った生き方を模索したりということもない。働き者で,生産的な部分では社会に順応している。若者からは,青春の苦悩も憂鬱も,不安もうかがえない。答えを探しているようには見えない。答えはもうあるのだ。新たな疑問を投げかけられることはない。」143

 

         「ここには創造性と個性という西欧において重要な意味をもつ要素は停滞しがちだ。文化の変容,進化を大切に考えるなら,この真似は出来ない。しかしもし,自分の人生を脅かすものが,知る限りにおいて何もなくて,自分属する社会のみんなが満足しているなら,変化を望む必要があるだろうか。これ以上どこをどうよくすればよいのか。」143

 

 

         「人生は素晴らしい。一人ひとりが自分で自分の始末をつけられるように育てられ,それによって,人生に満足している人たちの社会が出来上がっている,この考え方に異を唱えるのは容易ではない。」143

 

         「さらに,怒って当然なことをされたときでも,ピダハンは忍耐強く,愛情たっぷりに相手のことを理解しようとする(酔った兄弟に自分の犬を殺された弟) 144

 

         「ピダハンの社会では暴力は容認されない。」149

 

         「ピダハンの世界には公的な強制力はない。警察も,裁判所もなく,首長もいない。だが強制は確かに存在する。その形は,村八分と精霊である。村八分は孤立を招き,生きていけない。精霊はああしてはいけなかったとか,こういうことをしてはいけない,と村人に告げる。村人のなかの誰か一人を名指すこともあれば,全体に話しかける場合もある。」159

 

         「図形を描くに当たって,正しい図形とは彼等にとって全く無縁の未知なる概念である,数がない。色名がない。感知した色を,色彩感覚の一般化にしか用いることのできない融通のきかない単語によってコード化することをしない。」170

 

         「人々は経験していないできごとについては語らない―遠い過去のことも,未来のことも,あるいは空想の物語も。」174

         「イピピーオという言葉は,ピダハンの価値観に共通する一つの顔をもたらしてくれた。その価値観とは,語られるほとんどのことを,実際に目撃されたか,直接の目撃者から聞いたことに限定するものであるらしかった。」184

 

         「ひとは自分の夢の目撃者である。ピダハンにとっては,夢は作りごとではない。目を覚ましているときに見える世界があり,寝ているときに見える世界があるが,どちらも現実の体験なのである。」

         「夢と覚醒のどちらも直截な体験として扱うことで,ピダハンは,私たちにとってはどう見ても空想や宗教の領域でしかない信仰や精霊という存在を,直接体験として扱うことができるわけだ。もし私が,自分の抱えている問題を解決してくれる精霊を夢に見て,夢が覚醒しているときの観察と質的に同じものだとすれば,夢の中の精霊はわたしにとって直接的な体験である。」186

 

         「数とか勘定とは,直接体験とは別次元の普遍化のための技能だからだ。数や計算は定義からして抽象的なものだ。対象を一般化して分類するのだから。だが,抽象化は実体験を超え,体験の直接性という文化価値を侵すので,これは言語に現れることが禁じられるといことだ。」187

 

         「ピダハンは食料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。どれも今に着目し,直接的な体験に集中しているからではないか。」187

 

         「ピダハンの言語と文化は,直接体験でないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。その制約とは,叙述的ビタハン言語の発話には,発話の時点に直結し,発話者自身,ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直ちに体験された事柄に関する断言のみがふくまれる。」187

 

         「自分たちが話している時間の範疇に収まりきることについてのみ言及し,それ以外の時間に関することは言及しない。」

         「血縁関係も直接出会える者に限られる」

 

         「歴史や,創世神話,口承の民話の欠如」189

         「繰り返し語られる物語として,ピダハンにも大事にされている物語はある。例えば,ジャガーとの遭遇を描いた物語,出産で死んだ女性の物語。それはある意味では神話であるが,そうだとしても,ピダハンの神話には,現存する目撃者のいないできごとは含まれない。神話に実証を要求する。物語が語られるときは,その時点で生存している承認が必要なのだ。絶対神や創造神という考え方はない。」191

 

         「ピダハンが見ているのは目に見えない精霊ではない。我々を取り巻く自然の中に実在するものの形をとった精霊なのだ。ピダハンはジャガーを精霊と呼び,木を精霊と呼ぶ。ピダハンが口にすることはすべて,実際に体験できるものでなければならない」190

 

         「ピダハンが精霊を体験しているというとき,彼等が何事かを体験しているのは事実であり,それをピダハンは精霊と名づけている。その体験に精霊という呼び名だけではなく,ある性質を結びつける。そのような存在や,血液がないといった性質は,一つ残らず正しいかと言えば,正しくないと言い切れる。けれども私たち西洋人も日常的に多くの正しくない経験をしている。」200

 

         「けれどももしもピダハンの神話が直接経験の法則にしたがわねばならないならば,世界の多くの聖典,つまりキリスト教の聖書も,コーランも,ヴェーダも,ピダハン語に訳したり,ピダハン語で論じたりすることはできない。なぜならそうした聖典には生きた証人の存在しない物語が数多く含まれているからだ。だからこそ,これまで,300年近くかけても,伝道師たちがピダハンの信念を少しも揺るがすことができなかったのだ。アブラハムの物語に現存する目撃者はいない。」201

 

         「外部の事物を会話に取り入れないといことだ。例えば,ピダハンは,煉瓦の家づくりについて話さない。煉瓦で家を作らないからだ。(アメリカ人が幽霊について話さないように)」

         「ピダハンは外国の思想や哲学,技術などを取り入れようとしない。借り入れることはあるが。」284

 

         「自分たちの文化に位置付けられていないもの,他の宗教の神々や西洋的な黴菌と言ったものを話題にすることは,ピダハンに生き方やものの考え方の変革を迫る。だから彼らはそうしたことを話さない。」284

 

         「夢と日常は,ほぼ同じ領域なもの,同じように体験され,目撃されるものとしてとらえているのだ。」299

 

さて,以上をまとめて,いささかの一般論である。ピダハンの文化に原理的なものとして,次の3項目があげられよう。

1)   直接体験の原則(直に体験したことでない限り,それに関する話は無意味になる,語られることは実際に目撃されたか,直接の目撃者から聞いたことに限定される。ただし,直接体験あるいは直接経験といっても,科学や初歩的哲学でいうような,知覚,感覚による対象認識を指すというようなものでない。前半に述べたように,そこでは,精霊も,夢も,私たちのいわゆる実在と同じように,直接体験されるものであり,したがって,同等に真実,実在なのである。)。

2)   「イビピーオ」という語の意味するもの,その語の象徴するもの。(知覚あるいは経験の範囲にちょうど入ってくる,もしくはそこから出て行く行為を示す。つまり,そこには,知覚,経験の内側と外側の境界線が前提とされ,それを,著者は,「経験識閾」と名づけるが,ピダハンは,徹底して,その内側で生きる)。

3)   エソセリック・コミュニケーションの成立する世界(話し方や,話題にされることが,比較的狭く限定される,ピダハンのものの考え方を揺るがせることのない事物に特化された,外部から分り難い世界)

 

第一に,ピダハンは,徹底して,直接体験によって与えられる事物の範囲内で,経験識閾の内側で,エソセリックな世界の中で,生活する。その外のものは,無関心の対象,存在しないものであり,したがって無なのである。

 

こういった原則に従って,私たちの世界では存在するとされ,さらに言えば,むしろ,重視されるものものであるが,ピダハンの世界では否定されるものがある。以下がそうである。

1)   抽象的な,あるいは,イデア的な存在物,(言語的に言えば,語に階層があるとして,上位の階層に所属するような語に対する対象物,例えば,抽象名詞,数の概念,色の名前,の対象・・・),

2)   社会関係についても,直接経験の対象でないもの(3代を超えるような血縁,外国人,正義,・・・)

3)   時間的に直接性を超えるもの(歴史,過去,未来,・・・),

4)   創世神話,民話,そして,おそらく,原理原則,倫理,道徳,身分,差別,・・・・。

 

第二に,直接体験の世界は,狭い,有限の世界である。そこには一般論が成立しない。エクソセリックな(exoseric,部外者にも理解できる)世界に対して,エソテリック(esotericな,内輪の)世界である。そこで重要な視点は,ピダハンは,そういう世界を選んだというのではなく,ピダハンにとっては,その外の世界がないのだから,その世界しかないということである。ピダハンの文化(世界)は,ピダハンにとっては唯一のものであり,選んだのではない与えられたものである,それ故,こうしたエソテリックな世界は,内部に一体感があり,相互に親しい,共同,平等,の世界になる。

 

そして,今自分が生きているその世界しかないこと,生きることは選択の問題ではないことが,生きることにおいての,善かろうが悪しかろうが,与えられた条件(自然環境,死,苦,・・・)を素直な受け入れるという,ピダハンのありのままの生活の仕方に通じるのである。

 

まとめて言えば,ピダハンの文化は,有限性の世界に(第一の特性),ローカルに生きる(第二の特性),生きている世界の拡大(無限への志向),普遍化を目指さない,そういう文化である。

 

翻ってみれば,私たちの文化は,ピダハンと反対に,直接体験の世界を超えて,抽象的思考を展開し,世界をその方向に広げ,そして,その複雑さの中で,解けもしない難しい問題を創り出し,解こうとして,アポリアに陥ってきた。同時に,領域的にも,世界をより大きなものにし(これは,大きな世界に入れることによって,問題を小さくしようという意図かもしれない),その中で,世界を持てあましてきた。ピダハンは,小さい確実な世界を維持し,外の世界を認めない。

 

両者は,一方が普遍で,一方が奇異である,一方が正しい,一方は間違っているという正誤の違いではなく,文化の違いなのである。私たちは,私たちの世界を,科学的,合理的な普遍的世界であるとみなしている(と思い込んでいる)。しかし,科学とか,合理性とか,普遍とは,ローカリズムであり,特定文化なのである。科学や合理性や普遍の中に文化が成立し,合理性,科学に従ったものが正しく,他は誤りであるというわけではない。

 

もう一つ,我々にとって大切なポイントは,以下である。我々は望むと望まずにかかわらず,(ある)文化の中に生きている。その際の文化とは,ただ一つの,普遍的文化であるのか,相対的にいろいろな文化があるのかという問題である。我々が生活している中で,何か問題が生じたとしよう。前者の立場を取れば,その問題は,普遍的である一つの文化の中で生じた問題だから,普遍的である一つの文化の中で解決しなければならない。後者の立場を取れば,問題はある文化の中で生じたものであったとしても,その問題の解決を,その文化の中でやらなければならない場合と,後者の場合は,文化には他の可能性もあるのだから,そこでうまくいかなかったとしても,それを他の文化の中に入れることによって,他の文化の中では,問題の意味が変わることによって解決されたり,あるいは,他の文化の下では問題すらならない問題として消えてしまうという形で解決されることもあるのである。つまり,たとえば,私たちの現行の文化におけるある種の問題は,ピダハンの下では,問題にすらならないとして,解決されているということもありうるのである。

 

言語は文化に規制されるという著者の主張は,「文化」は,「認知や言語,あるいは,人間自体」という,普遍性の中のことがらではないことを意味し,逆に「認知や言語や人間自体」が「文化」の中のできごとであること,そして,さらに,それに従って,文化の本質的な相対性にまで行きついた。これがこの書物の,結論である。文化の相対性についての主張の要点を,さらに示すべく,本文から引用して,補足としておきたい。

 

         「自分自身が親しんだコミュニケーション上の約束事の立場から物事を見ようとする。それは,科学でも,夫婦,親子,上司と部下というような,仕事家庭の領域でも起こる問題だ。私たちは対話の相手が何を言っているか大抵分っているつもりだが,よくよく調べてみると,かなりの部分を誤解しているとわかることがある。

         「私たちは様々な仮定を前提としてしゃべっている。」343

 

         「知識とは,経験が,文化と個々人の精神を鏡にして解釈されるものだ。知識は自分自身の体験の説明であり,最も有効な説明が知識であると考えられているわけだ。」344

 

         「私たちは誰しも,自分たちの育った文化が教えたやり方で,世界を見る。」346

 

         「私たちはたいてい,自分の知識は携帯可能だとかんがえている。サンディエゴにて感じ,学んだ世界に関する知識が,デリーに行っても完全に通用するものだと。しかし私たちが知っていると考えることのほとんどはきわめて地域限定的な情報であり,地域に根差した視点で得られたものでしかない。」360

 

         「私たちに残されるのは,言語を回転させる機構に過ぎない文法よりも,世界各地のそれぞれの文化に根差した意味と,文化による発話の制限とが重要視される理論だ。」361

 

そこで,最後に,著者の,キリスト教信仰はどうなるかである。

著者は,次の過程を経て,信仰を捨て,無神論者になった。

 

         「ピダハンには,外のものであるキリスト教の教理は,全く興味がない。ピダハンは言う“だがおれたちはイエスはいらない”,“イエスと言う名の男がいて,彼は他の者たちに,自分の言った通りにふるまわせたがっている”」368

 

         「著者の信仰告白(そこには継母の自殺という悲惨な出来事も含まれていた)に対して,自殺などはばかげているとして,爆笑。私の愛する誰かが自殺したとしても,ピダハンが私たちの神を信じる理由にはならない。」

         「私は,彼らに無意味な生き方をやめ目的のある生き方を選ぶ機会を,死よりも命を選ぶ機会を,絶望と恐怖ではなく,悦びと信仰に満ち足りた人生を選ぶ機会を,地獄でなく天国を選ぶ機会を,提供しに来たつもりでいた。」366

         「幸せで満ち足りた人に,あなた方は迷える羊で,救い主たるイエスを必要としているのだと得心させることの困難」369

 

         「私が,ピダハンのところにもってきた神聖なメッセージが世界のどこに行っても通じるものだと決め込んでいた自信は,実に根拠など全くなかったということだ。ピダハンは,人の手など借りずとも,自分のことは自分で守れるし,守りたい人だ。」373

 

         「ピダハンには罪の観念はないし,人類やまして自分たちを矯正しなければならない必要性は持ち合わせていない。おおよそ物事はあるがままに受け入れられる。死後の恐怖もない。」375

 

         「直接体験の原理によれば“イエスはどんな容貌だ,おまえは見たことがあるのか,どうしてそいつの言葉をもっているのだ。”となる」368

 

         「私は次第に,現代生活の最も基本の部分にある,真実そのものの概念も問い直し始めるようになった。というより,私は自分が幻想の下に生きていること,つまり,真実と言う幻想の下に生きていると思うに到ったのだ。」

 

         「ピダハンは断固として有用な実用性に踏みとどまる人々だ。天国も地獄もない。彼等は私たちに考える機会を与える。―絶対的なものがない人生,正義も神聖も罪もない世界がどんなところであろうかと。―そこに見えてくる光景は魅力的だ。」

         「信仰と真実という支えのない人生を生きることは可能だろうか。ピダハンはそうして生きている。」378

 

         「ピダハンはそうして生物としての心配ごとにもとらわれずに生きている。なぜなら,一度に一日ずつ生きることの大切さを独自に発見しているからだ。ピダハンはただたんに,自分たちの目を凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが,そのほんのひとなぎで,不安や恐れ,絶望といった西洋社会を席捲している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ。」378

 

         「どうか考えてみてほしい。 ― 畏れ,気をもみながら宇宙を見上げ,自分たちは宇宙のすべてを理解できると信じることと,人生をあるがままに楽しみ,神や真実を探求する虚しさ理解していることと,どちらが理知を極めているかを。」379

 

         「ピダハンは,自分たちの生存にとって有用なものを選び取り,文化を築いてきた。自分たちが知らないことは心配しないし,心配できるとも考えず,あるいは未知のことを全て知り得るとも思わない。その延長で,彼らは他者の知識や回答を欲しがらない。彼らの世界観―ピダハンの日常生活のなかから培われてきた生き生きとした世界観は,私が自分の人生と,たいした根拠もなく抱き続けていた信念とを振り返ってみたときに,途方もなく役に立ち,また得心させてくれるものだった。今こうして私があるのは,神の不在をなんらの動揺することなく受け入れられていることも含めて,少なくとも部分的にはピダハンのおかげだといって間違いない。」378

 

         「天国への期待や地獄への恐れを持たずに生と死に向き合い,微笑みながら大いなる淵源へと旅立つことの尊厳と,深い充足とを示してくれた。」7

 

信仰には3つある。

第一は,心理的信仰。いつか自分は幸せになると信じているの類である。第二は,倫理的信仰。信仰によって,罪や絶望の淵から,正しい生き方,至福に達しようとするものである。その前提には,現状の世界,生き方は,不完全なものだという前提がある。この本の著者が捨てたのは,倫理的信仰であったと言える。

 

しかしその他に,第三に,論理的信仰というものが考えられる。それは,この本の文脈に添って言えば,すべては文化(生活)に相対的だと承知した上で,特定の文化(生活を)受け入れ,受容して生きること,である(私の言葉で言えば,開かれた全体を意識し,その中の一部として生きること)。信仰とは,ある生を受容すること,選択ではなく与えられてそこに生きることなのである。文句を言わずに,選ばずに(例えば,ピダハンのように)。これをなぜ論理的と呼ぶかと言えば,心理も,倫理も人間的な範囲のことがらであり,そこに自己意識が関与するが,受容は置かれている構造の問題だということである。信仰とは生きることであり,生きるとは,構造を(論理を)受容することなのである。その点はまた改めて述べたい。