ピダハンというアマゾンの少数部族,そして,ピダハン語と言語の普遍性

 

ダニエル・L・エヴァレット著『ピダハンー言語本能を超える文化と世界観』(屋代通子訳,みすず書房,2012.3.刊)を読んだ。 

原著は, Daniel L. Everett; Dont sleep ,there are snakesLife and Language in the Amaonian Jungle2008 である。

著者は,伝道者,言語学者として,南米アマゾンの奥地のピダハン族の言語に習熟し(今日ピザハン語を話す者は400人を割っている),聖書をその言語に翻訳するミッションの下に,家族ぐるみ,ピザハン族の移住地に,断続的に30年に渡って住んだ。その結果,著者は,ピダハン語の権威として言語学者としては業績をあげるが,キリスト教の信仰は捨てることになる。

 

取り上げたいことは,二つある。

1)   ピダハン語研究の成果として得られた,著者の言語観。(普遍文法というチョムスキー派の言語観に抗するものとしての)

2)   著者に信仰を放棄させ,これまでの世界観に動揺を与えたものは何か

 

1)について,著者は,人間性,理性の尊重につながる,言語の普遍主義に対して,文化という概念を導入し,言語は,文化によって規定されるとする。もとより,ここでいう文化とは,普遍としての文化一般ではなく,具体的個別的な文化である。文化はもともと個別的である。

 

言語学,言語哲学の,一つの課題は,認知と文法の関係をどう捉えるかであった。文法とは,言語使用において,意味から始めて,語を,句や文章や,物語,会話に組み立てていく,その組成力,結果的には,そこに成立する語の構造のことである。認知とは,思考のために必要な大脳ないしは精神の仕組み,あるいは,思考そのもののことである。

 

両者の関係として,まず,次の2つが考えられる。

一つは,「認知→文法」。つまり,「文法は認知によって支配される」。認知は,人間の認識能力であり,「人間は理性的である」とすれば(正確には「人間は理性的であるべきだ」ということであるが),認知とは究極には理性に基づくものであり,そういった考え方の上で,文法,言語は,普遍性を持つものになる。それを普遍文法と呼ぶことにする(それは,比較的少数の原則とパラメーターで記述できる)。チョムスキーの立場である

 

もう一つは,「文法→認知」,つまり,「文法が認知を支配する」という立場である。サピア,ウォーフの言語相対論に代表されるもので,それは,1950年代を中心として,刺激的な議論であった。「言語は我々の認知作用に影響する」,「思考は言語の境界を越えられない」,「私たちが世界をどう見るかは言語によって構築され,我々が見ているものが何であり,それが何を意味しているかを教えてくれる言語というフィルターなしに感じられる現実世界などというものは存在しない」(サピア)など言われる

 

チョムスキー派は,言語を認知の中に置いた上で,認知を人間理性に基づくものとして普遍的とする。したがって,言語も(なかでも文法は)普遍的なものになる。そこでは,個々の言語の違いは,一つである普遍性の現れ方の違いとして体系的に説明される。サピア,ウォーフは,逆に,認知を言語の中に置いた上で,言語は様々だから,したがって,認知も様々だとするのである。(認知が違うことは対象(自然)も違うことである)。

 

以上は,認知と言語の関係であるが,これに対して,著者は,ピダハンの言語の実証的研究から,言語を普遍的なものとして捉えるのでなく,それぞれの言語を成立させる要因として,新たに,文化という概念を導入し,「それぞれの言語,つまり,民族文法,文法形態はそれぞれの文化によって構築される」という視点を示す。「文化→言語」である。(ただ,文化について,著者は,実例は色々あげているので,それによって何を示そうとしているかは,それなりに分るのだが,定義は与えていない。文化とは何かの検討は,次の課題である)

 

こういった著者の見解を裏付けるものとして,言語学的な,実証的な基礎の上に,次が示される。

1)   現行の言語学では,音韻については,一般論が成立しており,音韻についての議論はその中で十分に行われ得ることになっている。ピダハン語には,音素が少なく,言語として不十分に見えるが,しかし,音韻論とは別な要件によって,単語の識別が十分にでき,言語が言語として成り立つ。それは,音素以外に,コンテキストと音調という,二つの言語(音韻論)外のもの,(つまり,文化)が働いているからである。

2)   言語において決定的なものは,文法ではなくて,語の意味である。意味とはその語の使われ方である。意味を決めるのは,一つの語や文の,使われ方,他の語や他の文との相互関係,そして,その語や文が世界の中でどのような事物を指示しているかを話し手がどう捉えてかなどである。「ある言葉を使うとは,特定の文脈,すなわち,ある言葉がどのように使われるべきかということを含め,話し手と聞き手が共有している背景や,その特定の言葉とともに使われるべき言葉を選ぶことである」。それらの要素は,いわば,言語外の,文化と呼ぶものに関わる。

3)   ピダハン語には,言語の文法として,どの言語にも普遍的に存在すると思われている,再帰構造,(修飾,関係節,接続詞の使用など,言わば入れ子構造,これによって,言語は無限に広がる),転移(語順の転換,例えば,疑問文や,強調文)が,ない,あるいは,重視されていない。ただし,それは,言語に,文法としてないということで,それに対応する内容をピダハン族は理解しないということではない。例えば,ピダハン語には数詞がないが,それは,我々が勘定と呼んでいるような行為をピダハンはしないということではなく,数詞を使って,我々のようにはしないということである。つまり,文化というものが,生活が,言語の形態に先行するということである。一般には,認知,言語が,普遍的,絶対的なものとして,そこにあって,その中で,文化とか生活は成立するとされるが,それは逆で,文化,生活の一部に,認知,言語が存在する。

 

以上,中心的話題は,「認知―文法―文化」の3つの概念と,その関係ということになった。ただここでの,認知,文法,文化という言い方は,少し狭い言い方だと言える。私は,哲学の議論として,もう少し大胆に,この3項を,「世界―言語―生活」と言い直して,拡大して解釈して論じてみたいのだが,ここでは言語学の議論として,いわば,実証的に,禁欲的に言葉が,選ばれているのである。

 

正三角形(△)をイメージしてほしい。そして,上の頂点に「文法」を,下辺の左の頂点に「認知」,右の頂点に「文化」を当てはめた3項関係を考える。

 

まず,文法とは,拡大解釈すれば,言語のことであり,言語には(言語は,単なる,インクのしみ,音波ではないから),その裏に,観念,あるいは,観念の体系がある

 

次に,認知とは,この本では,認知として限定的に認知行為のことを指しているが,認知とは,対象世界,自然あるいは世界の認知であるから,認知の裏には,対象,自然とよばれる世界がある。

 

文化については,著者は明確な定義はしていないが,ある意味で抽象的な,芸術的な嗜好や,テーブルマナーのことを主に指しているとは思えないので,基本的には,日々の生活,生活の仕方,のことと言ってよい。

 

つまり,この三角形は,拡大解釈すれば,<文法=言語=観念>,<認知=自然=世界>,<文化=生活>の3つのグループから構成されることになる。この3者の関係は,哲学として,根本的な問題である。

 

そのように拡大解釈した概念が裏にあることを承知した上で,  

 「 文法 ⊆ 認知 」 ―① がチョムスキーの立場であり, 

「 認知 ⊆ 文法 」 ―② がサピア,ウォーフの

「 文法 ⊆ 文化 」 ―③ が著者の主張である。

②と③を結びつけると,「認知 ⊆ 文化」―④,となる。これは,「自然(世界) ⊆ 文化」 のことでもある。(もとより,②,③を言語学として主張するには,さらに実証が必要であり,特にサピア,ウォーフの言語相対論は,今日は一般的には受け入れられてはいないようだが,著者は,好意的であるように読める。)

 

以下は,私の拡大解釈であるが,チョムスキーの普遍主義を拒絶し,ウォーフの言語相対論を受け入れた上で,この著の,「言語は文化の一部である」という主張を認めるならば,言語(観念体系)も,認知(自然,世界)も,文化(生活)の一部であるということになる。つまり,言語も,世界も,生活の中のできごとであるという解釈である。あるいは,サピア・ウォーフを通さずに(言語を経ずに),認知は文化に規制される,認知は文化の一部である(「認知⊆文化」)と直接論じることもできる。いずれにせよ,論証過程や,実証を,とりあえず棚上げして言えば,この著のテーゼは,「認知も,言語も,文化という出来事の一部である」,これは,文化一元論,生活一元論ということになり,普遍的なもの,アプリオリなもの,確定されたもの,原理的なもの,を否定したいという志向から言えば,魅力的な主張なのである。ただし,ここで,文化とか生活を,一般化したり,実体化したりしては,話はまた,別になってしまうのだが。

 

ピダハンの言語の分析と,言語の一般論の中で,普遍主義の否定,これがこの著の,刺激的な主張の前半である。