武道,スポーツについて,日経ビジネスから

  13.2.17.の「掲示板」記事の続き

その1

日本社会=体育会体質/爲末大学

www.nikkansports.com 

 

僕は体育会的体質は、実は日本社会的体質とも言えるのではないかと思っている。歯を食いしばり苦しみに耐え、指導者に必死でついていき、熱い思いで勝利を目指す。そういう姿を社会はスポーツ界に期待して、そしてスポーツ界もそれに応えていた。 

 

 いわゆる体育会的性質とは、礼儀正しく、限界を作らず、忍耐強く、空気を乱さず、上には逆らわず、熱意を持って動く。日本のスポーツ界は、こういった資質を持つ人間を育てる仕組みとしてはすごくうまく機能していて、ある意味で日本社会に最も適した人材育成の役割をスポーツが担っていたのではないか。
 でも時代は変わりつつある。グローバル化により年齢や地位を恐れず、自分の考えを主張し、議論できるタイプの人間が必要とされるようになった。イノベーション(物事の新機軸)やクリエーティビティ(独創的なアイデア)が必要とされ、無理やり1つの型にはめ込もうとする教育に抵抗が強くなった。そして1人1人の権利が重要視されはじめた。そういう社会の流れにスポーツ界はついていけていない。
 

 

 体罰は禁ずるべきだが、もっと深いところに問題の本質はある。これからは人間を型にはめて管理しやすくする教育観から、個人の権利と個性を尊重し、生かす教育観にスポーツ界も意識を転換すべきだ。むしろスポーツの世界から日本社会をリードするような理念を打ち出してほしい。指導者も選手も本当は日本をスポーツで豊かにしたいという同じ思いを持っているはずだ。どうか今回の事件を、世界に胸を張れる新しい日本スポーツ文化を生み出すきっかけにしてほしいと、強く願っている。

 

その2

「日経ビジネスオンライン」217

「オリンピック選手に体罰が行われる謎を解く」

(甲野善紀×小田嶋隆 アウトサイダー対談)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20130212/243601/?bv_rd

原子力ムラならぬ柔道ムラ状態

小田嶋:柔道女子日本代表の園田隆二監督が、女子選手たちに対して暴力を振るったとして辞任しました。131日に行われた記者会見の中では、「あなたの指導法は特殊なのか」という質問に対して、「柔道界で選手を叩いているのは私だけなので、特殊だと思います」と答えた。まずこれに、ものすごく違和感を覚えた。

甲野:そもそも、質問自体が「聞くだけ野暮」というものです。あのように答えたのは、園田監督が(柔道の世界の)「仁義だけは守ろう」としたという事でしょう。

小田嶋:柔道界としては、「トカゲのしっぽ切り」でもあったわけです。しかし、彼のコメントを柔道界が認めてしまうと、今後、「私も殴られました」という選手が出てきたときに、「(他の監督やコーチは)殴ってないって園田監督が言ったじゃないか」という話になってしまうのでは、と、普通は考えると思うんですが…。

甲野:そこまで考えていないんだと思います。

小田嶋:そんな…。

甲野:要するに、物事の基本的なところが見えず、取り敢えず目先の問題を何とか覆い隠すことに必死なのでしょう。柔道に限らず、武道、ひいてはスポーツ関係者も、原子力ムラならぬ柔道ムラや◯◯ムラ状態になっていると思います。ですが、まあ、とても園田監督だけの辞任では済まず、いろいろこれから出てくると思いますけどね。

制度で体罰を禁止してもムダ

小田嶋:「近所の小中学生を教えている指導者が、ふざけている子供をコツンとやる」というのであれば、それがいいか悪いかは別にして、そういう動機があるのはわからないでもない。でも、オリンピックに出よう、金メダルを取ろうというレベルの人に対して「指導者が暴力で言うことを聞かせる」という動機が、そもそも理解を絶しているんですが。

甲野:柔道の指導者が体罰をするのは、「自分も叩かれて育ったから、叩くのが当たり前だと思っている」ということ以外にはないでしょうね。

小田嶋:「強くなってほしいから、心を鬼にして叩いた」とか、「叩いているこっちも、本当は心が痛んでるんだ」という言い方があるけれど、あれ、嘘ですよね。

甲野:そうですね、完全に嘘だと思います。叩く以外の指導方法を知らないか、カッとして衝動で叩いているのかのどちらかでしょう。

 最近、現役選手も含めた柔道家が私の技に関心を持って訪ねてくるようになりましたが、1年ほど前に、その中の一人のある有名選手が、「上の人は『しっかり掴め』と『死ぬ気でいけ』としか言いませんからね」と言ってました。

小田嶋:よりによって「死ぬ気でいけ」か(笑)。

甲野:そうやって教わって来た選手は、私の技を受けて、これまで知らなかった世界に触れると、とても混乱するようです。有名選手は背負っているものが重いので、すぐ気持ちを切り替えられないのでしょう。ただ、最近は「また来させて下さい」という人も出始めましたが。

 その点、つい先日初めてやってきたレギュラー外の選手達は、当初は混乱していましたが、やがて、これまでやってきたこととはまるで違う私の技に、何か希望を見出したのか、無邪気な顔になって生き生きと稽古するようになりました。

小田嶋:(上層部から)期待されていない選手の方が、違う考え方を理解する余裕があるわけだ。

甲野:これは私が昔から何度も言っていることですが、いわゆる「鬼コーチのしごき」でも、そこそこうまくなることはあるんです。でも、今までの常識を超えたレベルまで上達するようなことは「しごき」では決して出来ません。

 一方で私は、「体罰禁止を法的にさらに厳しくしよう」という動きには反対です。大阪の高校で体罰による自殺があったということで、学校での体罰禁止を強化して、徹底的に取り締まろうという気配がありますが、そういうやり方がいいとは思えません。

小田嶋:なぜですか。

甲野:教育というのはどんな状況が生まれるかもしれない世界です。ですから、女の人が自分をからかった男をピシャッと平手打ちして、空気を変える事が有効な場合があるのと同じで、教育の現場で体罰をしないのは常識として大前提であっても、それ(体罰)を犯罪行為のように規定すると、たちの悪い生徒が、気の弱い先生を馬鹿にする、といった問題が今以上に起きかねない。

 とにかく法で規制する前に、そもそも体罰の必要性を感じないほど、生徒なり選手なりが夢中になって競技でも学問でも取り組むようにする事が先決で、これ以上、制度で体罰を禁じるのは考え物でしょう。

指導者の技が圧倒的であれば、体罰は必要ない

小田嶋:体罰をする必要がないほど、みなが夢中で物事に取り組むようにするにはどうすれば。

甲野:まず何をおいても指導者自身が上達し、圧倒的な技が使えるようになる事が大前提です。

小田嶋:ということは、今は指導者の方が技では負けるってことですよね。でも、スポーツではそれが当たり前、現役の方がうまくて当然だと思っていたけれど、そういうことじゃないんですか。

甲野:指導法うんぬん以前に、その技自体で周囲が指導者に対して尊敬の念を持つようになれば、体罰など自然に必要なくなりますよ。

 例えば、私の武術における一番の盟友である光岡英稔・日本韓氏意拳学会会長(※)の教室が、ダレたり、荒れるなどということは決して起きません。光岡英稔という人物は、たとえ相撲のルールに即して対戦したとしても、現横綱の白鵬が勝てるとは思えないぐらいの人で、ハワイにいたときには生き死にがかかるような勝負も挑まれた方です。しかし、普段は本当に温厚で、ニコニコされています。それなのに「光岡を試してやろう」と思って来た、頑強な大きな人を、手をとって子供とでも遊ぶように前後に自在に動かす。

 生徒は皆ビックリしてしまいます。ですから、どんなに彼が優しくても、彼をなめる生徒など荒れるなどいませんし、普通なら全く武術に無縁だったと思われるような女性も、暖かい雰囲気と高い技術を感じて、熱心に稽古に励んでいます。

小田嶋:光岡さんと内田樹さんの『荒天の武学』は非常におもしろく読ませていただきました。「あ、自分もこんな技ができるようになってみたい」と思える先生に習っている生徒は、練習を休みたいと考えるどころか、「もっと教わりたい」と思うでしょう。人柄が多少悪くてもね。

甲野:結局、人柄もさることながら、誰も文句のつけようのない圧倒的な実力があるからそうなるのです。

小田嶋:教室ではまた別の事情、状況があるんだろうけれど、トップレベルの選手を指導する場合だったら、教えられる側が指導者に対して「この人はすごい、教えてほしい」という気持ちが出てこなければ、うまく回らなくて当たり前だ。「どう考えても自分の方が強いんじゃないか」という気持ちをなんとか抑えて言うことを聞いていたら、「死ぬ気で行け」じゃなあ。

 しかし、そうはいっても年齢とともに体力が落ちてくると、ほとんどの競技でどうしても若い人のほうが強くなってしまうのでは?

甲野:事実として、体力的に勝る若い人相手に、圧倒的な技を見せつけることができる人は、残念ながらごく稀でしょう。ですから私が、「そうした年齢や体力の有無に左右されないような、考え方からまったく違う次元の技を追求している」と言うと、「幻想だ。漫画の読み過ぎだ」と片付けられてしまう。

 しかし、私の例で恐縮ですが、私はもうすぐ64歳ですけれど、実力的には今がピークです。例えば、柔道のトップ選手が継続的に訪ねてくるようになったのはここ1年のことですが、去年の今頃はそうした選手を驚かすことは出来ても、今のように、こちらから積極的に崩しにいくような戦い方は出来なかったですからね。

現代における武術の意味とは

小田嶋:今日は私自身もいろいろ技を体験させていただいて、驚きました。甲野さんのやっていることを私なりにごくごく簡単に言えば、「腕力」とか「脚力」といった部分部分じゃなく、体全体をどう使って一番効果的に力が出せるか、ということを考え抜いていらっしゃる印象で、運動には素人の私にとっても、ロジックと効果が分かりやすくてとても面白い。

 しかし、分からないのは、私のような素人や、あるいはロボット工学の専門家とかが「これは学ぶべき点がありそうだ」と思うくらいなんだから、柔道界の人だって興味を持ってもいいはずでしょう。ところが、甲野先生のところに来ている選手たちも、いまだにお忍びで来ているとか。

甲野:柔道の世界の人は「自分たちのほうが専門家だ」と思っているから、彼らと同じ常識を共有しようとしない私の発想はインチキに見えるんでしょうね。しかし、私に言わせれば、彼らは「柔道」というルールの専門家ではあるかもしれませんけれど、武術の専門家ではまったくない。

 この問題は競技化された柔道や剣道だけではなく、昔の武術的色合いが濃いとされている合気道でも言えます。例えば、ある技に対して、普通はやらないような返し方を思いついて「こういう返し方をされたときはどうするんですか」と師範に聞こうものなら、「あのね、そういうことはやっちゃいけないんだよ」というような気まずい雰囲気を作られて、ごまかされることがほとんどです。

小田嶋:気まずい雰囲気か(笑)。私が新人歓迎会で君が代を斉唱したときのようなものかな。武術と、柔道などの「スポーツ」の違いは具体的に何ですか。

甲野:武術は本来、「人間の生理的反射」とか、「関節はこちら側にしか曲がらない」といった、人が決める以前にすでに決まっている自然のルールだけが前提で、それ以外の人為的なルールがない。それが、人がルールを定めるスポーツ競技と武術の最大の違いです。

 例えば、すぐそこにものすごく凶暴な人が暴れていて、いますぐ取り押さえるか、ノックアウトしないと大変なことになるとしましょう。そういう非常事態においては、すべて自分の責任で、その場をどうするかを決めなくてはならない。そのことに向き合うのが、本来の武術の姿です。

小田嶋:暴漢と向き合うときにルールもへったくれもない。身体の構造や反射、つまり自然に決まったものに沿いながら、急場において全て自分の判断でサバイバルしていくのが武術ということですね。

甲野:そうです。武術というのは、突き詰めれば「生き残り術」です。私がロボット工学の研究者や音楽家など、一見畑違いの人から関心を持たれるのも、人間にとって、自然に決まっている制約以外はほとんど制限がない中で、技を工夫しているからだと思います。

 例えば、私は楽器の演奏に関してはまったくの素人ですが、楽器を弾いている姿を見れば、「ああ、ここが身体の使い方として不自然だな」ということはわかるのです。なので、畑違いの音楽家対象の講座も引き受けて、もう50回続いていますよ。

警察官の剣道や柔道は本来の職務につながっていない

小田嶋:とはいえ、スポーツとして、生死を賭けずに勝負を決めるには、ある程度ルールを決めねばならないわけで…。

甲野:それはそうです。ただ、そうして武道が競技化していく中でも、武術の感覚を取り入れて技そのものの質を根本的に転換することは出来たはずです。

 たとえば50年ほど前の話ですが、国井善弥(道之)鹿島神流十八代師範などは、剣道の当時一流の人達から相撲の双葉山その他、柔道、ボクシング等、さまざまな武道・格闘技の人と立ち合い、それぞれのルールの範囲で圧倒的な実力を示しています。

 ですが、今の柔道界、剣道界では稽古法・トレーニング法も一般のスポーツに引っ張られてしまい、そういう精妙な技の世界を目指そうという動きは、全く見られません。「そういうことは自分たちとは関係のない世界の出来事だ」と、見ないようにしているんです。

小田嶋:柔道なら柔道の世界がすべてなんだ、専門家でもないのに首を突っ込むな、と。それで、今の柔道は、柔道着の襟の掴み合いばかりやっているように見えるんですかね。

甲野:さきほど柔道の指導者が、とにかく「掴め」という話をしていると言いましたが、武術の世界においては「掴む」というのは、だいたい素人のすることです。

小田嶋:え? そうなんですか?

甲野:掴むとどうしても腕の付け根が浮いてきて、体幹(編注:この場合は胸から腹にかけての体の中心部にある筋肉を指す)から離れてくるんですね。ですから体幹の力を腕にそのまま伝えられなくなる。

 先ほど例に挙げた国井師範なども、柔術では掴まない方法を修行させられたエピソードが残っています。それに、武術の感覚で言えば、相手が刃物を持っていた場合、うっかり掴みにいったら、腹を刺される危険性が大きいのです。

小田嶋:ああ、そりゃそうですね。

甲野:警察官が柔道、剣道をやるのは、本来は犯人逮捕のためですよね。しかし、警察で逮捕術の師範をしている人たちは、単に競技としての剣道、柔道のトップでしかなく、逮捕術について何も知らないという事を私の知り合いの警察官に聞いて驚きました。そのせいでしょう、柔道で腕に覚えのある警官が、現場では刺されてしまうということがしばしば起きるようです。

 剣道についても同じです。例えば木刀を持って剣道の「正眼の構え」をしても、覚せい剤などで痛覚が麻痺した相手に木刀を掴まれて引き寄せられ、やはり刺されてしまうようなことが起こる。

小田嶋:手に取りやすい場所に、木刀を差し出してやるようなものなんだ。

小田嶋:手に取りやすい場所に、木刀を差し出してやるようなものなんだ。

甲野:ですから、ルール無しの現場で戦闘する場合には、棒や木刀などを下段に落とし、相手に奪われない構えから自在に使えるようにする必要があるのです。しかし、現在の警察の剣道では、まるでそうした際の訓練はしていないようです。考えてみれば、これはとてもおかしな事ですよね。

小田嶋:うーむ。

甲野:警察官が柔道や剣道の全日本の大会で優勝したとか、そんなことは国民にしたらどうだっていいんです。犯罪者をちゃんと取り押さえてくれる、そういう警察官を望んでいる筈ですから。

「きれいごとを言う桑田真澄氏は裏切り者だ」

小田嶋:今回の問題の前には、大阪の市立高校で部活動中に体罰があり、生徒が自殺してしまった事件があり、さまざまな識者がコメントしていました。その中で気にかかったのが、甲野先生ともご縁の深い(※)桑田真澄元投手が朝日新聞に寄せた寄稿と、それに対する反応のキツさ。

例えば「週刊文春」では「反体罰の旗手、桑田真澄への違和感」という記事が掲載された。この記事を見て思ったのは、桑田投手が出した真っ当なコメントに対して「きれいごと言いやがって」という空気が、「週刊文春」編集部、というより、スポーツ業界全体にあるんじゃないか、ということ。野球界は言わずもがな、スポーツマスコミも含めた業界全体が、「そういうきれいごとを言う奴は裏切り者だ」という空気を共有している。

 桑田投手だけでなく、落合や江川といった、高い能力がありながらも集団になじまないタイプの選手について、スポーツマスコミは熱心にスキャンダルを見つけて攻撃してきた。これは、「いじめ」あるいは「体罰」と同じ体質に起因しているんじゃないか。

甲野:それは間違いなくそうでしょうね。桑田さんも現役時代「投げる不動産屋」などと言われていましたが、あれも、ただ姉さんと結婚した相手に「俺に金を預けてくれ」と言われて預けただけで、ほとんど実体がない話なんです。それなのにとことん叩かれた。あれは、スポーツマスコミが「こいつを悪役にして売ろう」と決めたかららしいですね。

小田嶋:桑田さんが高校を出たばかりの18歳のとき、石川好さんというノンフィクションライターが書かれた『シャドウ・ピッチング』というすばらしいインタビュー本があって、「高校出たばかりのピッチャーがこれだけ物を考えられるんだ」と本当に驚かされた。

 桑田投手はその本の中で、「教えられたことをやるのではなくて、自分で考えて野球をしたい」といった趣旨のことを語っていたわけですが、「自分でものを考える」姿勢を見せると、どうやらそのこと自体が生意気だと言われてしまう。

 そういう意味では、スポーツ界には「指導というのは、指導者の言うことを無理やり聞かせることだ」という信念があって、それをまた、スポーツマスコミが応援しているという構図があるんじゃないかと思うわけです。柔道に限らず。

「練習や稽古は不快なもの」という前提

甲野:「指導とは相手に何も押し付けず、相手が自発的に向上するように導くことである」というのは、私が稽古法で最も影響を受けた整体協会の野口晴哉先生の名言ですが、それこそ、ライト兄弟が寝食を忘れて飛行機の開発に没頭したような情熱がなければ、さっきから言っている、革新的な、常識外の技は生まれません。

 逆に言えば、生徒なり、選手なりが、指導者と一体となってその競技の技術を追求していれば、体罰をしようなどという考えすら起こらない。「明日稽古なんだ」と明るく言うか、沈んだ声で言うか、その差は大きいですよ。つまり、柔道を本格的に稽古している者のほとんどが「明日稽古が休みだったらうれしい」と思っていることが、問題の根本にある。

小田嶋:体罰が求められる背景には、痛みなり、不快な刺激によって人を引っ張らなければいけないということがある。それは端的にいえば「練習や稽古は不快なもの」が前提になっているということ。練習が楽しいのであれば、恐怖心によって人を引っ張る必要はない。こういう事を言うとまた「きれいごとを」ということになるんだろうけど(笑)。

甲野:きれいごとだろうと、上達するにはそれが一番ですよ。熱意がある人にとっては、練習や稽古は楽しみで仕方がありません。さらに言えば、練習時間以外でも、生活の中でも四六時中、工夫しています。「こうすればどうなるだろう」と常に考えている。

 そうでなければ、本当に高いレベルの技ができるようにはなりませんし、そういう状態の人には、体罰で無理に言うことを聞かせる必要など全くないのです。

「こんなこともできるのだ」を示すのが指導者の資格

甲野:私は、武道の指導者の、何に一番存在の意味があるのかというと、習う人に「あんなことが本当にできるのだ」という実例を示すことだと思います。習う人が想像もしていなかった技を実際にやって見せることで、「現にこんなことができる人がいるなら、自分もできるかもしれない。そうなりたい」と思わせることが何より重要なのです。

 指導者は、指導する者達から「憧れられるような技」が出来ることが何よりも大事なことなのです。技ができないからといって、代わりに怒鳴って言うことを聞かせようとするのは、まったく指導の本質から外れています。

小田嶋:言い換えると、先生が手取り足とり教える必要は必ずしもない。理系の研究者を考えても、人気のある先生は、「教え上手」というより、自分自身の研究に没頭して、周りを顧みないくらいの人だったりする。

甲野:その人の技が抜群に切れるとか、その人自身の技が選手を引退しても、なお向上しているということが一番です。少なくとも武道の場合は、指導者が「そこそこ」ではなく「抜群」に技ができることが重要でしょう。

小田嶋:そう考えると、柔道の代表監督のように、選手に金メダルを取ってもらおうという場合には、指導者には金メダリスト以上の技量が求められるわけですよね。しかし残念ながら、ほとんどの指導者にはその力はない。だから権力的に威圧するしかなくなって、結果、暴力を振るっていると。

甲野:そうでしょうね。「この年で今さらオリンピック? 気恥ずかしいから出ないよ」と言って、実際に立ち合えば代表選手よりも技が切れる、というのが本来の武道の指導者だと思います。

小田嶋:でも、実際にそういう人っているんですかね。

甲野:フランスの馬術界は層がものすごく厚くて、金メダリストよりも上手な壮年の選手がごろごろいるそうです。それが自然な状態だと思います。日本の武道の指導者の例で言えば、仙台で空手の指導をしている長田賢一師範は、もう20年前も前でしょうか、「ヒットマン」の異名をとったフルコンタクト空手の有名選手ですが、現在の方が技が上です。人との接し方も含め、現在の武道の指導者としては本当に頭が下がる珍しい人物です。

小田嶋:「かつて金メダルを取った」とか「好成績を上げた」という「過去の実績」が指導者のパスポートになっている現状がそもそもおかしくて、指導者に求められるのは「今、目の前でズバ抜けた技を見せられるかどうか」である。それなら、選手も、普通の人も納得できる。

素振りを1000回やろうが、気づけない人は気づけない

小田嶋:私、「侍」「武士道」という言葉が大嫌いなんですが、「武道」というのもありますね。武「術」と武「道」、これはどう違うんでしょう。

甲野:確かに「侍」「武士道」は、建前と本音が最も乖離している代表的な言葉でもありますからね。「武道」に関しては、私は一昨年『武道から武術へ』という本を出しました。このタイトルの意味は、「武道」というと、「道」が大事だ、精神が大事だ、という建前によって、自分の技の未熟さをうやむやにしてしまうからです。

小田嶋:ははあ。実力じゃなくて心構えだ、と。

甲野:「術」と呼べるほどの技は、単に数を繰り返せばできるようになる、というようなものではありません。「『術』と呼べるほどの領域まで達する技を目指そう」という願いを込めて、私は自分の取り組みを「武道」ではなく「武術」と呼んでいるのです。

そして、そういう「術」と呼べるほどの技を行えるようになるには、結局、身体の「気づき」を積み重ねるしかないのです。気づきがなければ、質的転換などは起きません。ですから、脅かされて嫌々繰り返し稽古や練習の量を重ねたところで、何もいいことはないんです。

小田嶋:でも、よく「型が重要」と言いませんか。よけいなことを考えず、素振りを1000回もやれば、おのずとなにかが見えてくる、とか。

甲野:まあ、回数をやれば、そこそこの効果はあるでしょう。でも、それでは「術」には届かないということです。「術」と呼べるほどの技というのは、単なる反復練習の延長線には現れない、動きが質的に転換したものです。そういうものを身につけるためには、自発的な研究心が絶対に必要だということです。そして、本来の型はそういうものを会得するためにあるのですが、今ではまったく型の意味が失われてセレモニー化していますね。

 私が武術を通して追求しているのは、「人間にとっての自然とは何か」であり、そのために「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」ということを把握したいと思っています。そうした事から導き出されることの一つとして、武術には「人間にとって切実な問題をもっとも端的に取り扱うもの」という面もあります。

小田嶋:切実な問題を端的に。

武術とは「人間にとっての切実な問題」を取り扱うもの

甲野:一対一で戦うという武術的状況が、さまざまな切実な問題を扱う能力を上げてゆくのです。ただ、人間にとって切実な問題というのは人それぞれですからね。例えば夏の終わりには女の子から失恋相談がよく舞い込んできたこともありました。まあ、たしかに彼女らにとって、これほど切実なものはなかったわけですから。

甲野:イジメも体罰も、それぞれの人が抱える「切実な問題」なわけですが、それらの根本解決は、「人間にとって生きるとは何か」、また「人間にとって自然とは何か」という人間にとっての本質的問題と根本的に向き合うことが必要で、それを頭だけで考えるのではなく、体感を通して考えるために、「武術」は他に較べるものがないほど優れたものを内蔵していると、私は思います。

(構成:井之上達矢・夜間飛行編集長)