世界は始まりを持ち,作られたものとしてある(事前に存在する絶対の世界という言い方はミスリーディングである)

世に韓流ドラマというのがある。現代物と時代物の二つに分けられる。前者はつまらない。その嚆矢たる「冬のソナタ」だが,これは我が方で言えば,かつて一世を風靡した菊田一夫の「君の名は」に当たる。私の思うに,共に人気を得た理由は,ドラマだから,主人公が最後にはハッピー(あるいはアンハッピー)のどちらかにならなければならないのだが,ただ,そこがはっきりするまで,曲折があって,待たされる,そして,その待つことが,長編ドラマとして,小一年も続くから,親しみ,思い入れというものができてくる,このことにある。

 

一方,韓流の時代ものの方は面白い。「チャングム」「トンイ」そして最新の「王女の男」まで,日曜日の楽しみとして何年かに渡り熱心に見た。どこが面白いか。主人公の女性像である。みんな,健気で,賢く,能力に優れている。そして,それによって,つまり,個人の工夫と努力で,当時の身分社会の,与えられた条件の中で,しかるべき人格的高みに到るのである。それに対して言えば,出てくる男は,王様であったり,取り巻きであったり,その敵であったりするのだが,そこにあるのは,体制と権力という,無内容の,形式だけであり,やっていることは,血統によって王という身分を引き継いだことと,周辺の権力闘争だけだから,没個性的で,パターン化されていて,ドラマ構成上,女性主人公の引き立て役として,存在するだけである。

 

ただ,今回のこのブログの主旨は,韓流ドラマの品定めではない。取りあげたいのは,還流時代劇にしばしば登場する,「誘拐,拉致」である。そのやり方は,当人に後ろから袋をかぶせて,そのまま背負って逃げるという,単純なものだ。北朝鮮による拉致事件も,そんな手口だったと聞いている。

 

そこで,問題は,例えば,私が,袋をかぶされ,拉致されて,袋の口が縛られたまま,どこか山奥にでも投げ捨てられたとしよう。外が見えないまま連れてこられたから,どこへ運ばれたのか,遠いのか,近いのか,どちらの方向か,場合によっては海の向こうか,皆目分らない。そのことの後,私はどうするかというのである。

 

まず,袋を破って外に出る努力をするだろう。それはできたとする。そこが出発点である。しかしながら,出られたとしても,ここはどこなのか廻りの状況が分らない。こうなると欲しいのは,自分はどこにいるのか,自分の置かれた状況がどうなっているのか,全体像,言わば,地図である。そして,その下で,次に欲しいのが,今後,どのようなことが自分にできるだろうか,どのように動いたらよいかの知識である。地図とこの意味での知識,これをまとめて,広義に知識と呼ぼう(今流に言えば,「認知」と「仮設の設定」である)。認知と仮設があれば(知識があれば),それに従って,自分の行動をマネージでき,人の助けも呼べるし,もとの場所に戻る手立てもつく。拉致問題を解決して,以前の,自分がよく承知している,迷うことのない状態に復帰できるのである。

 

拉致をモデルにとって,言いたいのは,実は,我々の生きること,生活することは,上と同じような構造からなっているのではないかということである。整理して言えば,私たちの人生,生活は,(自分の意志によるものでなく)拉致され(①),見ず知らずの所に投げ出された(②)ところから始まる。その際,もし生きようという気持ちがあれば(③),袋から出ようとするであろう。そして,袋から出た後,何も分っていないそのような場所で生きるについては地図が必要になる(④)。地図とはまず周辺の見通しである(認知)。その上で,自分はこういう方向に進みたいという目的をもつ(⑤)。さらに,こうすればこうなるであろうという予測を立てる(仮設設定)(⑥)。そして,やってみる(⑦)。これが,生きることであり,我々の実際の生活のすべてである。拉致された場合は,もとの状態に戻ることが,目的になろう。

 

ただここで,「生きること,生活すること」は,「拉致され,知らない土地に投げ出されたこと」を同構造だといったが,共通点もあるが,根本的な違いもある。

 

拉致の場合は,当人には分っていなくても,置かれた場所は,日本国内なら日本国内として,固定的なものとして,そこに確定されている,当人は固い基盤の上にいる。だから,基盤の正確な写しとして,正しい地図というものもあり得る。拉致され,投棄されたということは,当人が,自分のいる場所を知らない,地図を持っていないということである。だから当人が知らないにせよ,置かれた地形は実在し(それを写した正しい地図も存在し),当人の生活は,その地形上での,その地図に従ったものなのである。拉致とは,ほとんどあり得ない特別なことではあるが,確定された,実在の世界でのできごとなのである。

 

一方,生きること,生活することが,拉致や投棄と違ってくるのは,次である(あるいは,生きること,生活することを,そのようなものとして捉えたいということである)。上では,生きることに始点があることを,拉致と投棄に喩えたのだが,生きることの場合は,世界はあるのだけれど当人に知られていないというのではなく,それは,本来的に,何もないところへの,(所ですらなく,言わば,無への,混沌の中へ,本質的な無知の中への,)投棄なのである。そこでは,投棄される世界というものは,事前にはなく,したがって,地図もあり得ない。だから,そういう状況に置かれたことをもって,生きること,生活することの始点とするならば,生きること,生活することは,すでに有るものではなく,そこから創り出されたものだとなる。具体的には,生活が成立するためには,地図が作られ(認知),仮設が設定され,それが試されなければならない。逆に言えば,それが,生きること,生活することなのである。その他には何もない。

 

ただ,認知と仮説の設定と言ったが,事前に世界があるわけではないから,写されるべき世界を忠実に写したのが地図という訳にはいかない。何もないところに地図を作るのだから,結局,そこでできることは,認知ではなく,仮設を作り実行することである,出来た地図とは,仮設設定の結果である(認知も仮設である)。突き詰めれば,あるのは,仮設の設定だけであり,それが,生きることであり,生活であることになる。だから,もし,仮設の評価をするとすれば,それは正しいかどうかではなく(そのことは世界が事前にない以上言えない),目的に添うかどうかである。ただし,その際も,絶対的な目的はあり得ず,添うというのも幅がある概念である。目的も評価も,また,仮設である。

 

通常の解釈の下での拉致投棄は,世界が事前にあり,そこでのできごとであった。しかしながら,私たちの生きること,生活することは,何もないところに生活する,生きることである。それは,生活を,生きることを,創り出すことである。そこには,始点というものがある。出発点がある。始点があるとは,そこから出発して,その後に,生活,生きることが(原理的には)様々な形で出てくることである。理系的にはビッグバーンである。前回のブログでは,それは信仰だと言った。ここでは,宗教論ではなく,知識論,認識論の議論であった。どちらから言っても,私たちの人生は,始点があり,作られたものなのである。

 

以上の議論の下敷きは,一般意味論である。

1)   一般意味論では,「現地と地図」という。通常いう拉致とは,現地は存在するのだが,地図がない,地図を強引に取り上げられたことである。地図はないが,現地はあるから,地図はなくても生きることはできる。(あるいは,厳密には,薄い意味で,そこにも地図はある,ということでもある)。

2)   しかし,一般意味論では,「地図なくして現地はあり得ない」という。現地は混沌であるから,地図がなければその内容(書き割り)は全く与えられないのである。

3)   その上で,一般意味論では,「地図は現地ではない」ともいう。地図は現地の写しではなく,作りものだからである。

4)   さらに,「地図は現地のすべてではない」という。現地は混沌であるから,地図はその一部についての地図でしかあり得ず,現地は常に地図にない要素を含むのである。

5)   私たちは,現地に生きるのだが(地図と現地ではあくまでも現地が優先する,そうでないと地図の意味もなくなってしまう),生きるとは現地において地図を作ることである。しかし地図は現地の一部でしかない。したがって,私たちの生活は限定されたものになる。

6)   (通俗には,地図は現地の完全なコピー(写し)であり,その意味で地図=現地であり,地図は現地のすべてを写すとされる。)