事実と信仰 (信仰 と ビッグバーン)

1年ばかり前に,私家版として拙著『哲学の勧め』を上梓しました(その内容は,このH.P.の古い倉庫に収めてあります)。その後,旧知の方々に拙著を進呈し始めたのですか,途中で,こちらはよいが,もらった方は,何とも返事ができず,困惑しているだろうと反省し,あるところで送付を止めてしまって,今日に到ります。しかし,反省以前にお送りしてしまった知人のリストを見ると,その中の10人弱が,クリスチャンです。あまり意識しなかったのですが,振り返って,私もこのようなお付き合いの環境の中でやってきたのかなと,ある感慨があります。ただし,察するところ,この方々の,拙著についての評価は芳しくない(ものと思われます)。棚上げ,あるいは,ちょっと言いようのないという心持かなと推察されます。

 

それはそのはずであって,理由は二つあるでしょう。一つは,信仰というのは,ひとえに内面の問題であって(多くそう思われています,しかしそれはミスリーディングだと私は思うのですが),拙著のように,信仰とは何かという一般論の中で解説をされたり,議論されたりすると,それは違うという違和感が生じるのだろうと思います。もう一つは,キリスト教は,あくまでもリアリズム,実在論でなければいけない。それに対して,拙著は,いわば,(誤解を承知でもせば)観念論を言いますから,それは受け入れられません。ただ,実在論,観念論と簡単にいっても,その意味は必ずしも固定的,確定的ではなく,信仰という視点を入れると,その線引きのところに根本的問題が潜むのです。その点について,少し述べてみます。

 

昔,大学生の頃,いわゆる60年安保の頃ですが,学生の思想的議論の一つの中心は,唯物論(実在論の一種),観念論のどちらをとるかでした。もちろん,それは,その時代を反映して,マルクス主義に由来する問題提起であり,唯物論が正しく,観念論は誤りだという到達点を前提としてのものではありましたが,私なども,友人から,(表現はこの通りではないですが)「お前はもう唯物論に回心したか,観念論の残滓は完全に清算したか」というようなニュアンスの問われ方をしたりしました。

 

実在論といっても,いろいろです。一般的には,科学の考え方が(厳密には近代科学と限定すべきものですが),実在論の代表であるとみなされますが,プラトンのように目には見えない普遍的な存在(イデア)を実在として認めるのもそうだし,霊的なもの(spiritualなもの)をもって基本とする実在論もあります(けれども,霊魂,霊的存在,spiritualといってもここもまた多義です)。(そして,後の二つ,普遍的存在,霊的な存在は,倫理に絡みます。)

 

しかし,いずれをとろうとも,実在とは,(我々の意識から独立に)以前からずっとあるもの,もとからあるもの,したがって,作られたものではないもの(始点のないもの),と定義できます(正確には,実在を,私はそのような意味にとって,以下の話をしたいということです)。ここで「作られたのでないもの」とややこしい言い方をしましたが,その反対の「作られたもの」は,作られたときがそのものの始まりであり,始点があるから,したがって,もとからあるとは言えません。(目の前のイスは,作られたものだが実在ではないかといわれるかもしれませんが,イスとはすでにある実在の新しい組み合わせに過ぎません。)

 

これに対して,観念論は,反実在論です。したがって,そこでは,ものも,ことがらも,世界も,もとからあるものとしては否定され,作られたもの,始点を持つものとしてあることになります。

 

通俗には,世界を「もの」とする実在論に対して,観念論は,世界を「意識(心的なもの)」とすると言われたりしますが,世界が実体として何であるかは,根本的な問題ではなく,(どちらを取ろうと,世界はあるようにあるのですから),根本的な違いは一方は,世界を,作られたものではない,したがって,始点がないものとする,一方は,世界を,作られたものであって,したがって,始点があるものとする,そこにあります。

 

実在論をとると,ものやことがらは(世界は)作られたものでなく以前からずっとあるものになりますから,始まりのないものです。だから,実在について,敢えて始まりを探そうとするとアポリアが生じます。例えば,原因の原因を追及する,意識の意識,高次意識を追求する,というようなことになり,無限遡及に陥ります。一方,反実在論に立ち,ことがら(世界)は作られたものだというと,今度は,それでは,世界は誰が作ったのだ(何によって作られたのだ)ということになりますが,そこは微妙で,(往時,マルキストから,観念論の陣営は,世界は,人間の意識が作ったものだとか,神が作ったものだとか,間違ったことを言っているとして,批判されたのですが),誰が作ったのかという議論は,「作った」(述語)というと「誰が」(主語)と言いたがるという,言語習慣あるいは思考法に基づく,第二義的なもので,「誰が」の議論はなくてもよい。大切なのは,原因や,由来ではなく,また,実体として何かでもなく,そのものがどのような性質のものかなのです。ですから,実在論,観念論の分かれ目は,現状(世界)を,「作られたもの(始点のあるもの)」とするか(捉えるか),「作られたのではないもの(始点のないもの」」とするか(捉えるか),そこなのです。

 

話をもとに戻して,拙著の信仰論に絡んで, 仮にAさん,Bさんとしますが,お二人から,丁寧な指摘をもらいました。それを紹介します。Aさんは私と同世代,Bさんはもっと若いが,二人とも,信仰において,教会生活という面において,キリスト教に深くかかわって生きているクリスチャンです。

 

Aさんからは,「コリント人への手紙第一第15章」を読むように指摘を受けました。そこは,キリストの復活について,パウロがコリント人に説くところです。私の理解では,そこには3つの内容があります。

1)   イエスの復活は事実であること

「(キリストは三日目に復活し,)ケファに現れ,その後十二人に現れたことです。次いで五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。・・・次いでヤコブに現れ,その後全ての使徒に現れ,そして最後に,月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」

2)   復活がなかったらすべてが無意味になること

「そしてキリストが復活しなかったのなら,わたしたちの宣教も無駄であるし,あなたがたの信仰も無駄です。」「死者が復活しないとしたら,食べたり飲んだりしようではないか,どうせ明日は死ぬ身ではないか,ということになります。」

3)   イエスの復活を分岐点として,世界は(自分は)根本的に変わること。

「蒔かれるときは朽ちるものでも,朽ちないものに復活し,・・・自然の命の身体が蒔かれて,霊の身体が復活するのです。」「最初の人は土ででき,地に属する者であり,第二の人は天に属するものです。」

 

その上で,Aさんは,この世(絶望の世界から)から,神の世界(永遠の世界)へ,肉の世界から霊の世界へ導くのがキリスト教であるとするなら,その結節点にあるのが,「キリストの復活という事実」であり,それは「キリストの復活という事実を信じる信仰」であり,その結節点がなければ,キリスト教信仰は成立しないと言います。

 

以下は,それを受けての,私の見解です。

扱いたい根本問題は,(通俗には両者ともに誤解されていますが,)事実と信仰という2つの概念の正確な把握です。聖書に述べられているように,キリストの復活は歴史的事実でなければなりません,つまり,実在でなければならない。しかし,その事実は同時に信仰でもなければならないのです。通俗には,事実と信仰は,どちらを取るかという,両立しない,対立することがらと考えられていますから,こういう言い方は,すぐには理解されません。しかし,復活がもし事実(だけ)であって,信仰でないとすれば,通俗の理解では,復活というのは事実としてあり得ないことですから通俗の実在論の上では,復活は,荒唐無稽な物語になってしまうのです。(また,それが,通俗の立場からも,簡単に認められること,あり得ないとされることでないとしたならば,信仰というのはまことに迫力のない,余剰的なものになってしまいます)。そして,信仰とは,この荒唐無稽なことがらを,無理に信じることになってしまうのです(つまり気持の,心理学の問題になってしまう)。こういった通俗の理解に反して,実は,「事実」と「信仰」は二者択一ではなく,切り離せないのです。事実の底には,信仰があるのです。信仰は,心情ではなく,事実に関わることがらなのです。このことが,キリスト教のみならず,信仰というものに,もっとも基本的な根本的な問題だと思うのです。

 

事実と信仰の間にある誤解は,信仰とは事実に対する信仰であり,その信仰とは心の持ち方であるという,事実と信仰の二元論です。そして,事実の方が真理であるという形での,(信仰はそれを納得するかどうかという人間的な問題であるという,)実在論です。

しかし,信仰について,あるいは,事実について,二元論をとると,そこに様々なアポリアが生じます。例えば,何かを信ずるという心の持ち方が信仰だとしたとき,どうしてもそれが信じられないということがあります。そうすると信仰が足りないのだとして,原因は自分にあるとして,自分を,心を責めることになります。本来,心の平安が,信仰に期待されたものだったにもかかわらずです。一方安直な人は,(深く)信じれば,信じた通りに事実はなると思い込んだりします。信仰が事実をゆがめるということです。信ずれば何でもかなうという,(いわば,それこそ)信仰です。信仰が心の問題であるとすると,こういうことになるのです。

 

復活という事実への信仰が,世界の根本的変化の結節点であるということは,信仰とは,(事実に立ち向かう)心の持ち方ではなく,信仰とは,事実を事実とするものだということです。信仰とは,いわゆる信じることではなく(心的なことではなく),事実として受け入れることなのです。信仰がなかったら世界は変わりません。世界が変わるとは,そこに新しい世界が生じたということで,それ故,信仰がなかったら,世界が生じないということです。その意味で,信仰とは心にではなく事実に関わるものなのです。事実は信仰によって事実となり,その原理に従って,復活は事実なのです。そのようにして,復活は成立します。復活は事実であり,同時に,信仰なのです。もちろん,それは,無理に思い込むことではありません。

 

そして,大切なことは,復活という事実だけではなく,他のすべての事実も,そういう成り立ちをするということです。復活だけが,信仰によるという奇妙な事実であるのではなく,目の前にイスがあるという簡単な事実も,信仰によるということです。復活を信じることは,復活だけでなく,すべてはそういうあり方をすると,承知することです。

 

Bさんが示してくれたのは,「ガラテアの信徒への手紙220節」です。そこでは,パウロは次のように言うのです。

「生きているのは,もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今,肉において生きているのは,わたしを愛し,わたしのために身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです。」

 

これについて,私の解釈ですが,ここで,いわゆるわたしは,すっかり変えられています,新しいものに生まれかわっています(「生きているのは,もはやわたしではありません」)。ただそれは,神の子への信仰によって,(復活を事実とする信仰によって,)成立したことがらです。だから,世界が,私が変わるについては,信仰が(必要)条件です。新しく生まれた世界は私たちが現実に生きているこの世界ですが,それはそのような構造の上での事実なのです。

 

以上,Aさん,Bさんの真意を誤解したのではないかと,恐れますが,私の方の問題意識として,事実はいわゆる事実ではなく(その点で実在論を離れます),事実と信仰は同じものであり,信仰は事実の始点である(その意味で観念論です),と言いたいのです。私としては,ここでは,このことを,聖書から学ぼうということです。

 

分りやすく言えば,世界にはそれ自体に(事実は事実自体に)始まりがあるということです。始まりとは,理系的にいえば,ビッグバーンというたとえが分りやすい。ビッグバーンの前には何もないのです。ビッグバーンから突然世界は始まる。そして,現在の世界になるわけです。そういうふうに,世界(あるいは実在)の有り方を考える。事実(世界)との関係で言えば,信仰はビッグバーンです。信仰から事実(世界)は始まる。これは,実在論のように,はじめから,ずっと世界があるというのではなく,また,信仰をもつことによって,(単に)世界の見方が変わるというようなことではなく,信仰がなければ,ビッグバーンがなければ,世界もないということです。

 

ただこれは,信仰を,現代物理学のビッグバーンになぞらえて説明した,ビッグバーンに喩えたということではなく,むしろ,物理学の方が,旧来の形の近代科学的実在論は維持し難くなり,物理の中に信仰の論理,論理構造を取り入れたと言いたいのです。