第二の敗戦,戦争責任,こんどこそ

NHKラジオで,週日の毎朝(ラジオ体操に続いて),ビジネス展望という番組がある。評論家,学者が,時事問題を解説し,論じるというようなことである。大体固定されたメンバーだが,体制批判派が多く,私はよく聞いている。先日,経済評論家の藤原直哉氏が,話していた。そこから,2点,いささか恣意的に解釈しながら,紹介したい。

 

<その一> 昨年末に政府が変わったが,誰が政権を担当しようと,これから数年間かけて,日本がしなければならない仕事は,敗戦処理であること。つまり,日本は,今次大戦に続いて,また負けていたのである。

(以下は,私の私見,恣意的な解釈を含む,藤原氏に必ずしも忠実ではない。何せ,寝床で聞いていたものだから)

 

つまりこうなる。日本は今次大戦に負けた後,いわゆる戦後復興を遂げ,そのあと高度成長して,経済的には成熟国家になった。しかし,その間,世界の潮流は,市場主義,新自由主義,グロ―バリズム,マネー主義,金融支配に向かった。日本も当然そのことに無縁ではあり得ず,それどころか,それにコミットし,その中でまた戦ってしまったのである。その仕上げが,例えば,小泉改革であった。しかし,その結果,またもや敗戦,今日の,人々のもつ閉そく感,不安,諸方面での格差拡大,特に経済格差,そしてなによりも,人間的なものの喪失,つまり,人間的能力の衰え,倫理の欠如(共同体の崩壊),目標喪失,・・・である。

 

今回の敗戦と,今次の敗戦(1945年の敗戦)には共通性がある。今次大戦の敗北は,近代化を成し遂げた日本が,世界の潮流に遅れて帝国主義,植民地主義にやっと参加したが,すでに帝国主義も,植民地主義も破綻に向かっていた。同様に,戦後復興をなしとげ,一等国になったと自覚した日本は,やはり外の思想である,自由主義,グローバル主義,市場主義を,乗り遅れるなと,あわてて,受け入れたのはよいが,そちらの方にはすでに今日破たんが見えてきている。両方の場合の選択とも,主体性,創造性に基づいた自前のものではなく,他に流された結果であり,しかも,さらに,そこで勝とうとした。結果は敗戦であり,失敗であった。

 

したがって,今日,大事なことは,まず,負けを素直に認めることである。そして,次に,敗戦処理をすることである。そして,その後で,他と無関係にはありえないとしても,他に流されない,外から移入品でない,新規のヴィジョンを作りだすこと,考え出すことである。自分で生きることである。それが我々の21世紀における仕事だと,藤原氏は言う。しかも,前回の敗戦のときは,幸運にも,アメリカが援助してくれた。今回は自力でやるほかない。そこは違う。

 

合わせて,藤原氏がこう言っているのではないが,私が思うのに,両者にはもう一つの共通性がある。それは,今次の大戦について,敗戦と,そこに向かった経緯について,つまり戦争を起こしたことについて,戦争責任というものを,だれもとっていない。むしろ,戦争責任を誰もとらないでよいというのが,今次の大戦の最大の教訓かもしれない。責任は,ノブレス・オブリージュに従って,上から取るべきである。上が責任を取らなかったということは,下にとっては,責任はとらないでよいというメッセージである。上に比べれば,下は圧倒的に多い,したがって,一億総無責任ということになる。同様に,多分,今回の敗戦についても,責任を誰もとろうとしないだろうということである。政治のリーダーだったものも,財界も,メディアも,誰もが,である。

 

戦争の責任には2つある。一つは対外的な責任。今次の大戦の場合,こちらはそれなりに追求された。相手が要求してくるからである。今回の敗戦は,自国内のことがらだから,言ってしまえば,自滅なので,対外的な責任はない。

 

戦争責任の第二は,同胞に対する責任,同胞の未来に対する(あるいは,同胞の過去に対する)責任である。同朋に悲惨,労苦を与えたのはだれか,同胞を道具として利用したのはだれか,過去を破壊し,未来における選択肢を狭めたのはだれか。

 

今次の大戦の場合,対外的な責任に意図的に議論が向けられ,後者の種類の責任が,無視あるいは曖昧にされてきたのが,経緯である。その結果,それは,むしろ積極的に,万事無責任でも通るという原理の原点になった。今日はそれを受けて,ことがらは,「リセット」,「御破算で願いましては」で,全て忘れられ,清められ,それ以後は,過去はないことになり,すべては新規ということになる。今日無責任の風潮があるとすれば,それは個人の資質ではなく,ここから始まったものである。歴史(過去と未来)の無視である。歴史を捨てれば倫理原則は出てこない。

 

責任とは,テーブルの前に何人か並んで,メディアに対して頭を下げることではない。また,何がしかの賠償金を支払うことでもない。また,服役することでもない。それで,リセットにならないのが責任である。責任とは起こしたことがらが失敗であると認め,それに自分が関わったことを認め,そのことを生涯忘れないことである。記憶の問題,内面の問題である。死ぬまで忘れてはいけない,したがって,常に思い出すとは,本質的には厳しいことがらである。だから,ことを行うには慎重になる。抑止力になる。人間生活にリセットを認めるならば,人間は軽くなり,責任も,倫理も消える。

 

<その2>もう一つ,藤原氏の述べたことであるが,昭和31年の経済白書に,もはや戦後ではないというのが載った。その白書の別の項に,「原子力利用とオートメーションが今後追求すべき先端技術である」とあったそうだ。その2つは今日の敗戦まで,産業の成長と共に,順調に進展した。しかし,原子力は,今日,自らの特性(放射能と後処理の問題)によって,破たんに直面している。オートメーションは,確かに,IT技術に繋がって,単に肉体的な省力だけでなしに,人間の知的能力をも,大幅に代替えしたが(ブログなどというものを発信できるのもそのおかげではあるが),それらが人間にとってよいことかどうか,そのことは何のためであるのか,やはり問題に直面している。奇妙な皮肉である。

 

いずれにせよ,どこへ向かうか,正念場である。少なくとも,帝国主義,植民地主義,市場万能主義(金融主義,グローバリズム),反歴史主義(無責任,無倫理,反人間主義)の焼き直しはご免こうむりたい。