金魚鉢二題

その1

 

ホーキング,ムロディナウ著『ホーキング,宇宙と人間を語る』(佐藤勝彦訳,エクスナレッジ刊,2011.)からの話です。

 

「数年前,イタリアの都市モンツァの市議会はペットショップの店主に対し,金魚を丸い金魚鉢に入れて飼うことを禁止しました。その議案を提出した市議は,その根拠として,金魚鉢に入った金魚には外の世界がゆがんだものに映ってしまうので,金魚にとって残酷である点を挙げました。

 しかし,私たちは,目に映る世界がゆがめられたものではないということをどうやって知り得るのでしょうか? 私たちは大きな金魚鉢のようなものの中にいるのかもしれません。巨大なレンズが私たちの見るものをゆがめているのかもしれません。金魚が見ている世界は私たちがみている世界とは違いますが,その世界が私たちのものより現実的でないと断言できるのでしょうか?」

    (同上書 「第3章実在とは何か?」から)

 

まじ,こんな議会がほんとうにあるのかよ,というのが,第一の疑問ですが,それはここではおきます。言えることは,

1)   金魚の見る世界(ゆがんだ)と,私たちの見る世界(まっとうな)の二つがあったとして,通常は,前者はニセで,後者が本物であるとされますが,その根拠はあるのか。

2)   人間は,金魚の世界はゆがんでいると勝手に言うが(そのためには,金魚と金魚鉢の外に立たなければならない),「金魚として金魚鉢の中に生きている」金魚にとっては,その世界は,何の不都合もなく,生活の一部であり,整合的で,理論化可能なものである。ニセと言われる筋合いはない。

3)   私たち人間も同様に,その外から見れば,「人間として人間鉢(?)の中に」生きているにすぎない。それを,自身気づかないだけである。知らないでいて,その世界を,勝手に本当の世界とか,実在とか呼んでいるのである。

 

このようにして,金魚であろうと,人間であろうと,喩えて言えば,それぞれがそれぞれのの中に生活しているのであって,その前提の下に見えるのが,その前提の下にあるのが,世界であり,実在であるということになる。金魚と人間では,どちらが本当ということではなくて,世界が違うのである。

 

ホーキングは,そこを,「実在という概念は,描像や理論から独立して存在することはない」として,そこから,「モデル依存実在論」を導き出します。

そして,ついでに言えば,そのモデルの条件として,次をあげる。

  1. 簡潔である
  2. 任意の,あるいは,調整のできる要素が少ない
  3. 全ての観察事実を矛盾なく説明できる
  4. 将来の観測に関する予言,特にその内容が観測結果に合わなければモデルが間違っていると分るような詳細な予言ができる。

そして,現在において,この条件を最もよく充たすモデルが,(統一理論の候補が),M理論だと言う。この辺はややこしいから,今回はやめます。

 

要点は,モデルが違えば,捉え方が違えば,世界が違うのである。違った世界なのだから,どちらの世界が正しい世界だという議論はミスリーディングであるということである。

 

その2

 

これは,前にも紹介した,一般意味論のS.Y.ハヤカワの著『言語と思考』(邦訳,南雲堂,1972,現在絶版)における議論である。

 

「ここにある金魚鉢はよくない。水は濁っているし,金魚全部入れるには小さすぎる。そこで,新鮮な水が常に流れる新製品の水槽を買ってきたとする。そして,金魚を,鉢から水槽に移してやろうとする。しかし,金魚は,懸命に逃げ回り,あばれる,いうことをきかない。金魚にとって良いことをしてやろうとするのに,なぜ抵抗するのか」というのである。

 

ハヤカワによるのではないが,別の例をあげれば,中学3年のヤンキーがいた。卒業間近になって,授業中に,廊下の窓ガラスをバットで割って廻った。その子と小学校以来の親友がいた。彼はヤンキー君を,こんなことをしていたら,卒業できないかもしれない,将来大変不利になる,としてやめるように説得した。しかし,明らかにバカなことをしているのに,このヤンキー君は,説得を受け入れない。次の日も割って廻る。なぜ説得をきかないのかということである。

 

その理由は,こういうことである。私たちにとっては,確かに,濁った水や,窓ガラスを割ることは,好ましくないことである,すべきでないことである。しかし,当事者にとっては,それは,また,別の意味を持つ。その別の意味の下では,それは,好ましいことであり,すべきことになる。したがって,他人による,汚水の交換も,説得も,抵抗の対象になる。そういう事情であるから,本気で説得しようとするなら,ことがらの,相手にとっての意味を理解することから,始めなくてはならない。でも,普通は,廊下の窓ガラスを割ることなどは,誰にとってもそれは,バカげたこととして意味づけされているから,説得のやり方は,相手に対して「バカなことをするな」といろいろな理由をつけて説明することを出ない。しかし,当人にとって,それは最初からバカなことではないのである。だから通じない。

 

ハヤカワは,相互理解の難しさを,意味論的障害と称するが,その克服法について,次のように言う。金魚鉢の話題とは離れるが,参考までに。

「意味論的障害を克服する方法は,われわれとわれわれが強く反対する人間との間を分け隔てている「鉄のカーテン」を突破するために,努力を倍増することではない。一番よい方法は,相手の話を理解するために,精力的に,しかも大いに想像力を働かせて,相手の座標系に入ろうと努力することである。コミュニケーションの流れが,相手からこちらの方に確立されると,こちらから相手の方にも同じようにうまく流れる回路が確立される。伝達過程の相互性を常に認識しておくことは,親子間,教師生徒間,労使間,国家間を問わず,人間関係の改善に不可欠である。」

    (ハヤカワ 同上書 四章「自己概念像」)