言葉は和解の道具である(戦いの道具ではない)

人の言っていることを聞いて,本当にその意を理解しているのかどうか,自分の言うことを,他人に理解させるには,どのようにしたらよいのか,そして,理解するとはそもそもどういうことなのだろうか。なかなか厄介な問題である。同じ人間だから,同じ日本語を使っているのだから,相互理解は当然の前提であり,相互理解ができないとすれば,知的能力に欠けるか,その言葉に習熟していないであるからである,というほど簡単ではないのである。理解には,知的能力,言語習熟以外に,様々な要素が関わっているのである。そのことは折々テーマとして扱ってみたい。

 

 今年,1216日には,衆議院議員の選挙が行われた。それについて,ここ一月ばかり,言葉のやりとり,あるいは,議論が,政党の数が多かったこともあって,様々になされた。その結果として,政権の移譲というかたちで勝負はついたのだが,何か意見がまとまったという訳ではない。議論は議論として,勝負は勝負としてついた,それだけのことである。当事者も国民も,膨大なエネルギーとそれなりの予算の浪費ということである。

 

 どうしてこういうことになるかというと,議論や言葉が,勝負を決めるための,手段あるいは道具として意識されているからである。「言葉で戦う」「議論に勝つ」という。勝負が決まれば,道具は,不要で,捨てられる。何も残らない。しかし,本来,言葉とか議論は相互理解,和解のための手段,道具である。うまく機能したとき,結果は,勝ち負けではなく,和解なのである。両者の分離でなく,融合なのである。言葉や議論がうまく機能していれば,この世に争いはないということなのである。しかし現状そうはいっていない。なぜか。言葉や議論に対して,まさに,根深い,誤解があるからである。そこをみたい。その一端として,まず,ここでは,いささか,how toにわたるが,ひとの話を聞く時の注意を取り上げておく。これだけでもずいぶん違ってくる。

 

 アメリカを中心に,一般意味論(General Semantics)という,言葉の使い方について分析して,それに従って言葉を正しく使うことによって,社会や,心理上の,生活上の困難を解決しよう,それらの困難は,言葉の使用上の誤解に基づくものだから,とする,社会運動,あるいは,学派がある。創始者はA.Korzybski1875-1950)であり,その発展,普及に大きく貢献したのが,日系二世の,S.I.ハヤカワ(1906-2000)である。日本で最も知られている書物は,ハヤカワの『思考と行動における言語』(大久保忠利訳 岩波書店,1949)であるが,同じくハヤカワの『言語と思考―シンボル・人間・社会』(四宮満訳 南雲堂 1972 現在は絶版)は,また分りやすく示唆に富む本である。私は,一般意味論というのは,人間生活を言葉によって成り立つものとし,その土台の上に,コミュニケーション,心理療法,宗教まで,扱う,分りやすいが,非常に奥深い思想であると思う。また,折々に,紹介したい。

 ここでは,ハヤカワの『言語と思考』から,「聞き方」について述べた章を紹介したい 。(次のブログに続く)