小さな自分,小さな環境(人類や地球は幻想である)

   

「人類みな兄弟」,「地球環境(を守れ)」,「地球市民」,など,盛んに言われる。「私たちは人類全体の中での一人一人である」とか,「私たちの身の回り,私たちの生活領域は,地球全体があってその中の一部として調和している」というのが,その意味であろう。

 

 しかし,そんなものが,すなわち,人類とか,地球が,私たちの成立基盤であり,本当にあるのだろうか。本当に,私たちは,人類の一員として,地球の一部として生きているのだろうか。考えても,地球の人口は70億人と言われるが,私たちの短い一生において,70億もの人と接触を持つわけではない。会ったこともない人が大部分である。それどころか,私たちの一生に関係する人間の数は,思っているよりはびっくりするぐらい少ないのである。

 

友人のA君は,しばしば連絡を取るし,気心は知れているから,私にとって確かに存在する。私の生活にとって関係者である。夫婦や,親子,兄弟も,その類かも知れない。しかし,アフリカの某共和国にBさんがいたとして,私はその人の名前を知らない,会ったことも,連絡を取ったこともなく,もとより,顔も,気心も知らない。多分,私の一生の間に,意識もしないし,接点もないまま終わるであろう。いてもいなくても私の生活は進んでいく。関係ないのである。そんなBさんが,私にとって,人類であり,兄弟であろうか。

 

つまり,私の生涯を構成するのは,人類などという,むやみと大きなものではなく,気心の知れた,友人や,家族という,きわめて少数なのである。人類の中に生活するのではなく,家族,友人,知人という少数の中で生活し,一生終わるのが,私たちである。そちらが現実であり,実体であり,人類は仮想である。

 

そして,しかも,この少数とは,具体的に,実際に数えてみれば,意外なほど小さいのである。例えば,これまで50年,60年生きてきて,名前と顔がすぐ思い浮かべられる人間は何人いるだろうか。漠然と考えれば,1000人,2000人などと思うかもしれないが,実際,書きあげてみれば,50人ぐらいで止まってしまうのである。ちょうど今は,歳末だから,年賀状にかこつけて言えば,平均の年賀状の数は100枚ぐらいではなかろうか。それに,ハガキを出す必要のない身近な人間を加えて,それらの合計の数が,私たちが一生の間で,具体的に付き合う人間の数と言ってよいかもしれない。せいぜい200である。50人というこの基準は厳しいというなら,仮にその数を100倍してみよう。としても,50人の100倍は5000人である。多分,そんなに多くの人と接して来たと言われても,実感がないであろう。一方,人類は70億である。

 

 要するに,人類だとか,地球だとか,大風呂敷を掲げているが,生活の実体は,せいぜい水増しして5000人,現実には,100人, 50人,30人の中での生活ではなかろうか。私たちの生涯は,それだけの限定された領域での一生なのである。そう考えれば,私たちの生活は,なかんずく,対人関係は,まことに濃いものである。それを人類など大風呂敷を広げて,何千万倍に薄めて考えているのが現状である。

 

 人類として生きるのと,50人の世界に生きるのでは,生き方が違ってくる。人類を出発点にするから,それを小分けにした,人種とか,国とか,が出てきて,その中に人間を閉じ込めることになる。人類,人種,国,そんな大きな世界で,調和を保つのは,至難の業である。だからそこで,道徳や正義が要請されるのだが,なかなかまとまらない。まとまらないから,道徳や正義を目指して,人種や国が戦うことにもなる。人類も,人種も,国もなくて,10人,30人の世界に生きるのが私たちであるのなら,そんなものは,現場でどうにでもなる。人類において解決しようとするから難しくなるのであて,10人,30人において,解決すればよいのである。

 

我々は,人類というような,現実の私たちの生活には関わっていない,多分ありもしないような,大風呂敷を考えるのではなく,目先に,目に見える10人,30人に生きればよいのである。大風呂敷さえ畳んでしまえば,現実的に,我々の能力の範囲で,ものは解決されるし,我々の資質は十全に発揮できるし,互いに助け合えるのである。そしてまた,そこでは,人間的触れ合いも,濃度という概念を超えて親密になるのである。

 

環境についてもことは同じである。私たちが現実生活において,具体的に,直接に関係している,周辺の物々,領域は,地球全体などというほど広くはなく,厳密には,廻りの30坪,50坪であり,私たちにとっての問題は,台風が来て前の道路に水がついた,それをどう解決するかである。地球環境,地球問題などではない。あるいは,台風で水がついたということは,地球全体の問題で,いわゆる,エルニーニョ現象によるのであるというかもしれない。でもそれは,道徳律と同じに,何にでも原因を考えるという科学主義の幻想である。エルニーニョを知ろうと知るまいと,エルニーニョがあろうとなかろうと,我々の問題は,家の周りに水がついたことである。我々はそれを,30坪,100坪の範囲で解決すればよいのである。

 

人類とか,地球は,思考の産物であり,それが実在すると言うなら,迷信である。それに対して,私たちの,生活,つまり,人間関係,生活領域は,有限である。しかも,予想外に小さい有限である。それが現実なのだから,小さい世界,小さな自分に生きる,そのことに徹することが,人間の本来なのであろう。確信を持って小さく生きる,それによって見えてくるものも違ってくるし,迷いもなくなるのである。