掲示板アーカイブス(3) 2013.8.21~2013.12.28

 

  • 荻原 欒 (水曜日, 21 8月 2013 13:58)


     これまで,ブログと掲示板という2つのサイトを用意しながら,2つとも,同じような扱いで,しかも,重たいテーマを,重たく書くような傾向になってきま した。後者は私の資質あるいは趣味の問題なので,「・・は・・なきゃなおらない」でまだ続きますが,ここで,少し反省して,テーマ的にも量的にも大きな荷 物はブログにしまい,そして,掲示板の方は,短く,軽く,という方向で,試みてみます。

     そこで,吹けば飛ぶような軽い話題を一つ。今日のニュースとして,航空会社のANAが,傘下に格安航空会社を独立させ,「バニラ・エアー」とするとありました。多分,「ピーチ」というのがあるから,こちらは「バニラ」だということだろうと思いました。話はそれだけです。
     
     でも,昔,まだ,ビール販売シェアーのトップを断然キリンビールが占めていたころ,なぜ,ビールの名前が,「キリン」なのだろうという疑問を抱いたこと がありました。ちょうどそのころ,札幌の郊外に,キリンのビール工場を見学した折,案内のお姉さんに,そのことを質問したことがありました。そうしたら, ビールが日本で商売として作られ始めたころ,なぜか,ウサギとか,動物の名を付けたのだということでした。だから,キリン。(こうした変な質問にきちんと 答えたことは,当時,あるいは今もかも知れませんが,キリンの従業員のレベルは,高かったということです。給料も他社より高かったようですが。)

     格安航空は,ピーチ,バニラ,・・・。ビールは,ウサギ?,キリン,・・・。それだけのことですが,私が面白がっているのは,①ことがらは,最初は,意 味もない真似から始まる。②全く違った領域におけることがらの,構造(これを手口と言うのです)の類似,つまり,アナロジー。この2つです。


     以上,極めて軽い話題でした。

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    #2

    荻原 欒 (月曜日, 26 8月 2013 16:02)


    「イチロー語録」
     大リーグのイチローは日米通算400本安打を達成したのち,記者会見をしていろいろ話しました。以下はその中から,興味深いものを拾いました。

    1.誇れることがあるとすると、4000のヒットを打つには、僕の数字で言うと、8000回以上は悔しい思いをしてきているんですよね。それと常に、自分なりに向き合ってきたことの事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかと思いますね。

    2.プロの世界でやっている、どの世界でも同じだと思うんですけど、記憶に残っているのは、上手くいったことではなくて、上手くいかなかったことなんで すよね。その記憶が強く残るから、ストレスを抱えるわけですよね。これは、アマチュアで楽しく野球をやっていれば、いいことばっか残る。でも、楽しいだけ だと思うんですよね。コレはどの世界も同じこと。皆さんも同じだと思うんですよね。そのストレスを抱えた中で、瞬間的に喜びが訪れる、そしてはかなく消え ていく、みたいな。それが、プロの世界の醍醐味でもあると思うんですけど、もっと楽しい記憶が残ったらいいのになあというふうに常に思っていますけど、 きっとないんだろうなあと思います。

    3.これからも失敗をいっぱい重ねていって、たまに上手く行ってという繰り返しだと思うんですよね。何かを、バッティングとは何か、野球とは何か、とい うことをほんの少しでも知ることが出来る瞬間というのは、きっと上手くいかなかった時間とどう自分が対峙するかによるものだと思うので、なかなか上手くい かないことと向き合うことはしんどいですけど、これからもそれを続けていくことだと思います。

    4.そもそも僕は学生時代にプロ野球選手というのは打つこと、守ること、走ること、考えること、全部できる人がプロ野球選手になるもんだと思っていたの で、今もそう思ってるんですけど、実はそういう世界ではなかったというだけのことでね、それが際立って見えることがちょっとおかしいというふうに思います ね。

    5.4000を打つには、3999本が必要なわけで、僕にとっては、4000本目のヒットも、それ以外のヒットも、同じように大切なものであると言えます。

    6.これからも失敗をいっぱい重ねていって、たまに上手くいってという繰り返しだと思うんですよね。何かを、バッティングとは何か、野球とは何か、とい うことをほんの少しでも知ることが出来る瞬間というのは、きっと上手く行かなかった時間とどう自分が対峙するかによるものだと思うので、なかなか上手く行 かないことと向き合うことはしんどいですけど、これからもそれを続けていくことだと思います。

    7.なにをやりながら…自分をプッシュしてきたわけではなくて、毎日同じことを繰り返す、厳密に言うとすべて同じではないんですけども、そういうことで 自分を安定した状態にもっていくというテクニックはあると思います。ただ、それを毎日継続できたとしても精神が常に安定するとは限らないんですよね。た だ、その時点の自分でできることを、考えられることをやっておきたいということですね。それでも結果的に不安定な状態になることはもちろんありますし、も ちろん、その割合が多いとは言わないですよ、時々そういうことがあるということですね。特によくない結果だったり、難しいゲームの後というのは、気持ちを 整理することはとても難しい状態にあることがあるので、いつも続けていることをまた続ける、その日も続けることが時々、しんどいなあと思うことがあります けど、そこは頑張りを見せるとこでしょうね。それは自分で続けてきたつもりです。

    8.自分は野球選手として、人間として成熟できてるかどうか、前に進んでいるのかどうか、ってことはいまだにわからないんですよね。そうでありたいとい うことを、うーん、信じてやり続けることしかできない。実は、今までは自分が成長しているとか、前に進んだってことを明確に感じることはできていないんで すよね。それがこれからも続いていくんでしょうけど、どこかの時点で野球とはこういうものだ、打つこととはこういうことだ、生きるということはこういうこ とだ、とか、そういったことが少しでも見えたらいいなとは思いますけども、現時点では皆さんの前で発表できることはないです。

    9.(「諦めるという瞬間はあるのか?」という質問に)
    きわどいとこきますね。これは駄目だな、言わないほうが良いと思いますね。ちょっとややこしい言い方になりますけど、ま、諦められないんですよ。色んな事 は。諦められないという自分がいる事を、諦めるという事ですかね。諦められない自分がずっとそこにいることはしょうがないというふうに諦める。なんか、野 球に関して妥協はできないので、まあもうちょっと、なんだろうな、ま、休みの日は休め、こっちの人みんな休むじゃないですか、そういう事ができないんです ね僕は。そういう自分がいる事は仕方のない事なので、そうやって諦めます。

     ある人は,イチローはまことにサムライだ(サムライジャパンなどという陳腐なマーケティング用語と区別して)と言っていましたが,またある人は修行僧み たいだと言っていましたが,イチロー,いいですね。何がいいかと言って,こういうことを普段考えながら生きているところが,いい。人間,「打って,守っ て,走る」だけではないということです。

     ここで取り上げられている,失敗のこと,うまくいかなかったこと,悔しかったこと,・・・については,たまたま,今日の朝日新聞に,ノーベル賞受賞の田 中耕一さんの講演(「科学での失敗を活かす」)の要旨が載っていて,失敗を,廃棄物として捨てないで,嫌なこととして忘れてしまえではなくて,失敗の原因 を考える,あるいは失敗自体を新たな事象として研究しなおすことによって,全く別な,有用な世界が開けてくる,失敗はごみではない,というようなことでし た。

     まことにそうだと思います。それについて,我が身を振り返ったとき,私にはいまだ成功体験というものがない気がします。でもそのことは,失敗,悔恨とい う,宝の山に恵まれてきた人生だったということで,ややこしく言えば,もっとまじめに,失敗や,悔恨に,悔しがっていれば(取り組んでいれば)よかったの にと,これまた,悔恨の極みです。

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    #3

    87期の田中正二です (水曜日, 28 8月 2013 12:38)

     

    こんにちは 
    まだまだ暑い日が続いていますね。
    今月は売り上げもさんざんです。
    これだけ暑いと人も歩いてませんしね(笑)。
    N・清水のところも、お客の悪ふざけ写真で大変みたいです。
    直接彼の店ではありませんが、チェーンですからね。
    学生のああいう写真をネットで公開するというのは、どういう考えなんでしょうか?先生の御意見を拝聴したいです。
    そうそう、涼しくなったら御一緒に・・・というのがありまして、清水に連絡した次第で。上記の理由でもう少し先になりそうです。

    ではまた
    田中正二

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    #4

    荻原 欒 (日曜日, 01 9月 2013 23:08)


     #30の田中君,清水君ともに,私の勤務していた大学の卒業生で,当時,大学に文芸部を作ったその創設者で,同人誌を出し,文章を発表し,当時は2人と も小説家でした。その後,田中君は家業を継いで酒店,清水君もある経緯の後,ここ何年か,ある外食チェーンの中で,いくつかの店舗のオーナーとして,頑 張っているところです。

     ここのところ,外食店舗を対象に,冷蔵庫入って涼んだり,米櫃に入ったり,調味料の瓶を不潔に扱ったり,しかもその写真を,ツイッターに載せるという, 悪ふざけがあって(こういうのを保守主義者は美しい日本と言うのでしょうが),清水君の関係するチェーン店も被害にあって,そのことを知って,気にしてい たところです。昔も,学生が酔っぱらって,商店街の看板を夜中に倒して廻るというようなことはあったのですが,それは看板が倒されただけ(看板倒れ)の被 害で済むのですが,外食産業の衛生管理という根幹にかかわることを,しかもそれがネットで,全国に知らされるということになると,商売の持続,関係者の生 活の維持にまで関わる冗談を超えたものになってしまいます。(さらに言えば,その犯人?の,所属大学,名前,出身地,小中高の名前,その他が,これまた瞬 時にネットに公開されるというところもすごいことだと思います)。いずれにせよ,清水君のところでも,ある対処をするでしょうし,また,早くに,この騒ぎ が収まることを希望して,事件自体には,それ以上触れないことにします。

     そこで,論じたいのは,一般的に言って,この悪ふざけ人間の本質をどうとらえるか,どういう種として分類するかということです。その点を少し論じましょ う。ズバリ言って,こういう人間を「単なるバカ」と名づけます。なぜバカと呼ぶかと言えば,第一に,自分のやっていることの外部への影響について考えてい ない,無知である。第二に,そういうクイアーな行動をとることにおいて,目立ちたい,他に勝りたい,自己満足したい,とする,第三に,ことがらが事件に なっても,お母さんが謝ってくれて,勘弁されて,それで万事終わる,どんなことをやっても終われば,ご破算あるいはリセットされ,因果的にも,倫理的に も,その後の人生には影響しない(あるいは,そのように何をやっても終わってしまえばその後はリセットだ,責任という倫理はない)と思っている。

     つまり,そういう原理のもとに行動するのです。人間生活の原理が,これ一つしかない,これが真理であるというのなら,それでよいでしょう。仕方がない。 しかし,人間生活の原理は,一つではない。いろいろな考え方がある。そのことへの無知が根本です。原理はいくつもあり得ることを承知したうえで,自分の信 念によって,責任において,そのどれかを選んで行動するのではなく,何も考えずに,ただ見てくれ都合がよいから,その時の流れに沿って,勢いで,行動する だけ,己の根本的無知を無知と承知しないで行動する,それゆえ,信念に基づく自覚的バカと区別して,「単なるバカ」と名づけるのです。

     これに近いのが,ヤンキーです。ヤンキーの定義は,斎藤環氏のもの(2012.12.27.朝日新聞の記事)が適切と思います。それは,(ヤンキーとは 非行や暴力と結びつく以前に,)「私がヤンキーと言っているのは日本社会に広く浸透している『気合とアゲアゲのノリさえあれば,まあ,なんとかなるべ』と いう,空疎に前向きな感性のことで」。

     この単なるバカの層が,世の中の秩序を乱す。この最新の例が,外食産業の出来事であり,もっと深刻なのが,教育現場における混乱です。世にいう,学級崩 壊などは,単なるバカの行動を抑えきれなかったところに起こるといってよいでしょう。あれには内容的なものは何もないのです(モンスター・ペアレンツなど も出演者は違うが,この類でしょう)。

     それでは,どうやって,単なるバカに由来する騒乱を収めるか。要するにバカにつける薬はあるのか。有力な手段が,「脅す」ことです。脅すにもいろいろな やり方がありますが,もっとも安直で,しかも有効なのが,暴力です。(もっとも,こちらの方が相手より強いというのがこのやり方の成功するための必要条件 ですが)。近時,体罰というのが,評判が悪く,教育現場などでは禁じられますが,これは,もっとも有力な手段を用いずに戦えということで,いわば,丸腰 で,戦えということで,どうしても単なるバカに(の集団に)負けてしまって,教育崩壊に至るというようなケースが多くなるのは当たり前です。

     いや,それは違う,教育は人格的な関係の上に成り立つなどという反論があるかも知れませんが,それに対しては,次のような,単なるバカが跋扈できない ケースを想像してみれば,ある程度説得力があるかも知れません。すなわち,校長以下教員全員が,やくざの幹部からなるような学校を考えたならば,そこには 単なるバカの活動の余地はありません。

     とりあえず,分かりやすく,脅かすという用語を用いましたが,一般的に言えば,サンクション(sanction),制裁,処罰,懲罰ということです。そ れは,法による制裁であり,暴力による制裁であり,当人の状況が不利になるようにすることであり(経済的に負債を背負わせることであり,社会的には村八分 にすることであり,・・・),要するに,望まない,不利な状況に貶めることです。これは基本的に効きます。これがないと,バカが跋扈することになり,世の 中が混乱します。

     ついでに言えば,世の中を秩序づけるために,これとは別な,物理的なやり方があります。アーキテクチュア(architecture)建築物,構造によ るやり方です。例えば,新宿の地下通路にダンボールで寝場所を作って住み着く者に対して,床に大きな凹凸を入れて,ダンボールを敷きづらく,寝にくくす る,の類です。太った人を家に入れたくなければ,ドアの幅を狭く作ればよいわけです。これは精神性が関係しないだけに目的に対して大いに有効です。ただ, 単なるバカ対策とは,連動しないかもしれませんが

     かくして,単なるバカとその類は,外食店舗の周辺から,教育の現場,そして,もっと広くは,日本の政治を,社会を,混乱させます。これらをまとめて,B層と呼ぶ評論家がいますが,それについては,もう少し広く,私が今準備中のブログで別に論じたいと思います。

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    #5

    荻原 欒 (水曜日, 11 9月 2013 16:24)


    「日本人でよかった」,「久しぶりの昂揚感」「夢の炎,熱く,熱く(朝日新聞)」「オールジャパンで成功させよう」,「日本人の自信を取り戻 せ」,・・・,7年後のオリンピックが,東京で開催と決まって,あるいは招致運動のさなかから,メディアは,このように,それこそ昂揚感に溢れています。 そして,私の周辺にも,そんな雰囲気が押し寄せてきています。(ただ,テレビのニュースなど見ていると,どうも今回は,人々は,意外に冷静で,当局の期待 した程の騒ぎにはなっていないようにも見えますが)。少なくとも,逆うことはできない雰囲気ではあります。

     オリンピックの開催は,いわば,廻り持ちだから,その力量があれば,お付き合いするのはよいと思います。粛々とやればよいわけです。ただ,私は,「オリ ンピック+α」のそのαの部分が気になるのです。αとは,経済効果何兆円とか,国威発揚とか,その他,その手のことがらです。それらとセットで売り出され る。第一に,経済効果と言いながら,一方で世界の人々を「もてなす」のだという。もてなすとは,儲けの手段ではなく,身あるいは身銭を切ることです。儲け ることとは本来両立しないものです。(もてなしと言えば,今回,おもてなしが招致に際してのキーワードの一つになっているようです,一方,今度の招致の成 功には,ロビー活動がうまくいったことだと自画自賛的に取り上げられています。ロビー活動 =裏工作 =「お・も・て・な・し」だと,朝日新聞の川柳欄に ありましたが,穿っています)。第二に,国威発揚と言いますが,一方で,オリンピックは参加することに意義があるとなっています。本当にそれを守ったら, 雰囲気はだいぶ違ってくるでしょうが,現実はそんなふうにはなっていません。

     でも,以上はともかくとして,私が,今度の小一月の経緯を見て,また同じことをやっているなと,すぐに思い出したのが,昭和63年の9月から翌年の1月 初めまでの出来事です。つまり,昭和天皇が吐血してから,崩御されるまでの事柄です。25年前ということになります。この時は,メディアから,我々の日常 にいたるまで,誰に言われることなく,一様に,自粛でした。すなわち,秋の運動会は中止になり,そしてその年の暮れは,年賀状は出さないことになりまし た。その間毎日,新聞には,陛下の下血の状態と,輸血の量などが載り,我々は一様に畏まったものでした。ちょうど今回,メディアがはしゃぎ,我々が一様に 昂揚感をもつ,ことがらの性質は逆ですが,構造は同じです。またやっているなということなのです。

    話はこれで終わりで,だからなんだ,それで当然じゃないかと言われれば,なおさら,そこまでなのですが,ただ,こういう反応の仕方が,日本人の優れた資質であるというべきなのか,破綻を含むものだというべきなのか,どちらだろうかということです。

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    #6

    荻原 欒 (火曜日, 17 9月 2013 21:28)


     大型台風が来るということで,ここ2,3日,NHKテレビで,気象関係の番組を見たのですが,その中で,関係者による,「風速30メートル」についての 説明は,よく分かりました。すなわち,「30メートル先にある物体が,1秒でこちらにとんでくる」ことだというのです。全くその通りで,何も付け加える必 要はなく,その脅威が目に浮かびました。説明の極意は当たり前をさりげなく言うということでしょうか。

     NHKは,人材も,人数も,お金もそろっており,長い伝統(というのはノーハウを持つということです)もあるから,日本有数の優れた組織だと思います。 ただ,今日,私が,NHKの報道で気に入らないのは,定時ニュースごとに,日経平均株価を出すことです。日経平均とは,それなりの計算式に基づいて出てく る数字でしょうが,多くの人はもちろん計算式は知らないで(つまり,その意味は知らずに),そして,さらに,その数字が,景気の良さ,社会の幸せ度を示す ものだと短絡的に洗脳されつつ,毎回見ているのです(NHKが繰り返してやるということはそういうことなのです)。

     しかし,株価,あるいは,証券市場というのは,そこに参加した人だけの狭い世界で,そこでやられていることは,相手の思惑を読んで,売り買いし,もう かったところで合法的に逃げ去るという,それだけのゲームあるいは博打です。株券というのは,もともとの出発のときは,企業の資金調達の手段として実体的 意味を持つのですが,それはその時一回限りで,株券が商品になり,市場がいわば初心とは無関係な原理で成立した後は,本来の意味は全く消え去り,実体のな い売り買いがあるだけです。こういった,思惑によって,金がもうかったり,損したりというところは,競輪や,競艇と全く同じです。(大規模な株式市場とい うものが成立することが,企業の資金調達,つまり,株券の購入を促進しているのだというかもしれませんが,あるところまでは,そうだったでしょう,でもあ るところから先は,資金調達の手段を離れ,博打になっています)。ただ,賭場よりは,競艇組織よりは,証券市場という札のやり取りの場のほうが,規模も金 額も,仕掛けが大きいというだけのことです。内容は,ともに,参加者だけの閉じられた世界の出来事であり(外につながらない,外に開かれていない),思惑 と賭けの張合いであり,周辺に,証券アナリストとか,予想屋とかいう第二次産業を成立させ,市場が常に拡大しない限り,その中だけの金のやり取りになるか ら,原理的に全員が儲かるわけにいかない,中には損をして泣きを見る人もいる,構造的には同じものなのです。

     だとしたら,言いたいことは,NHKは(ある程度は)公共放送だから,報道に当たっては公平でなければならない。もし日経平均や株価を放送するのをよし とするなら,それに続いて,今日の競輪,今日の競艇を(あるいは今日の賭場情報を)放送しなければ,不公平だろうということです。

     でも現実に,なぜそういうことが言われないかというと,大証券会社をバックにした(究極的にはグローバル金融資本をバックにした)近代的な株式投資と, ステテコに腹巻のおっさんが雪駄をはいて行く競艇と,親分衆の支配下の賭博では,違うものだと考えられているからです。でも違うのは,法という線引きの内 にあるか外にあるかであり(これは暫定的な任意の線引きであり),違うのは,外見と服装です。見てくれは違っても,行われていることがらのシステム,構造 は同じなのです。見た目が違ったり,別な場所にあったりする,一見違ったものの間に,構造の類似を見る,アナロジーを見る,これによって新たに見えてくる ものがあります。構造主義だなどと,大上段には申しませんが,こういう視点,アナロジーを見るセンスを磨くことは,思考の基本です。ついでに,もう一つ思 考の基本と言えば,何もないところに,何かを見る,すなわち,イマジネーション(想像)です。ものを統合的に,発展的に見るには,この二つが基本です。狭 義の頭の良し悪しは,その後の小さい問題です。

     博打がよくないなら,競輪,競馬もよくない,競輪,競馬がよくないなら,株式市場もよくない,そうなります。みんな同じ構造だからです。NHKは株式相 場だけ優遇することは止めなければいけない。株価の変化も,本来は,葉巻をくわえながら,NHKの定時ニュースで見るべきことではなく,証券会社の垣根超 えに,ステテコに腹巻で,背伸びして覗く類のものなのです。

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    #7

    荻原 欒 (月曜日, 07 10月 2013 21:55)

     
     少し古い話題ですが,曽野綾子氏が,8月31日号の『週刊現代』で
     「セクハラ,パワハラ,マタハラ,何でも会社のせいにする甘ったれた女子社員へ」
     「出産したら女性は会社をお辞めなさい」
     「自分本位で,自分の行動がどれほど他者に迷惑をかけるのかに気がつかない人」
    とか述べたことについて,賛否いろいろ言われているようです。

     それについて,9月26日の朝日新聞「論壇時評」の欄で,高橋源一郎氏が,その辺の流れを紹介しています。それによると,早速,上野千鶴子氏が,噛みついて,
     「女同士を闘わせて男はいつも高みの見物」
     「セクハラ,パワハラ,マタハラと,職場にタブーがどんどん増えて,男が好き勝手できなくなっちゃった。そんなの俺たちイヤだよー」という潜在する男性意識の代弁である
     「このやり方は,生活保護不正受給パッシングと全く同じ」
    としています。

     高橋氏自身も,
      在日,生活保護受給者,公務員などなど,彼らへの糾弾は,その中の少数の「違反」者を取り出し,まるで全員に問題があるかの如く装ってなされる。そこで は彼らの特権(があることになっている)が怨嗟の的となり,やがておよそ権利というものを主張すること自体が敵視されることになる」
      「こんなヘイトスピーチやパッシングを行う当事者の多くが,実は,社会的な弱者に分類される人たちであることはよく知られている。妬ましいのだ。」
      「でも,曽野さんのような恵まれた立場の人が,後輩である若い働く若者後ろから撃つような真似をすることは理解できない。・・・」
      「子供を保育園に預け,働いている女性は,(私の知る限り,)決して甘えているわけではない」
    といささか,曽野氏に,敵意を抱いて発言しています。もっとも,曽野綾子氏のような立場には,この問題のみならず,熱心な支持者と,反対者と両極端が生じ るようです。曽野さんの立つ基盤自体が,今日の世の中で,賛否話題の対象になるような,ある意味で根本問題を含むものかもしれません。(その本質は何なの でしょうか。別の本では,曽野さん自体,家庭の主婦的な役割と自分の仕事の両立に苦労したと言っています,それ故,甘ったれた人間は気に入らないのでしょ う。しかし,反論者は,それらのことは,甘ったれや,個人の努力不足の問題に流し込むのでなく,社会制度,社会改革の問題だ,そちらが先だ,というので しょう。これは,ある意味でまだ決着のついていない古いテーマです)。

     以上,ここでは,ことは育児に関して論じられているのですが,育児だけでなく,問題を,もう少し,一般論にして,(いつものように,感情論に逃げ込まないいで)広く議論すべき視点がここには隠されているように思えます。そういう視点に立って,以下は,私の見解です。

     私は,人間が生きていく上で,「炊事」,「育児」,「付き合い(人間関係の維持)」の3つは,基本的なものだと思うのです。これらは,生命の維持,種族 の保持,人間関係(共同体)の成立の3つに関わり,このどれかが止まると,人類は滅びてしまうようなものなのです。片時も休むことができません。ところ が,考えてみると,これらは,伝統的に,どれも,女性の仕事,女性が得意とする仕事になっています。実際に,女性の中には,「炊事」,「育児」,「付き合 い」についてのノーハウが,千年を超える経験の中で,莫大もなく蓄積されて受け継がれているのです。女性に集中しているということの良し悪しは別として, この伝統は,簡単な理屈で改変されるやわなものではありません。

     ところが,近時になって,「なぜ,女性が特に,この種の事に携わらなければならないのか」が,疑問に思われるようになってきました。

     それは,個人主義を原理とする近代社会の成立,分業,機械化による生産の工業化,市場の活性化と規模の拡大,そして,国民の参加による国家経営,つま り,国民国家の成立,言いなおせば,「個人主義」,(資本主義的)「経済」活動,(民主主義による)「政治」活動が,人間生活の意味付けとして,定着して 以来のことです。ここで個人主義とは,生活の具体面で言えば,要するに個人的欲望の充足を目指すということです。(これらは,展開や定着を超えて,今日で は,飽和点,成熟期に達したと言われ,厳しくは,自滅に近づいているともされます。)。

     例えば,それ以前の,狩猟社会,農耕社会のように,男性が肉体労働によって,食物を集め,外からくる攻撃に対して家族を守ることをしていた時代は,家族 という小規模な共同体の形成,維持が生活の目的であって,それが生活のすべてであって,その地平のもとで,「炊事,育児,付き合い」という女性が中心にこ なしていた仕事と,「食材調達,生活の保持」という男性の仕事の間に,意識的な区別はされませんでした。どちらも,同じ目的のもとに,仕事として,融合し ていたわけです。つまり,共同体の成立,維持,展開という地平の中では,仕事の種類の別も,男女の別も,意識に上らなかったのです。(もちろん,女性が男 性の仕事をしたいとは思わなかったのです)。

     それに対して,近代になって,産業,企業,市場という経済分野が成立し,近代国家とそこにおける個人という政治的分野が成立し,さらに,個人中心主義, 個人的満足を追求する楽しみ(快楽,娯楽,文化,などなどである)という新しい概念が成立してきました(あるいは,これらの成立を近代と呼ぶのです)。そ して,悪いことに,<炊事,育児,付き合い>は人間生活の基盤として捨てることはできませんから,依然として女性に振り分けられ,そして,<政治活動,経 済活動,個人の欲望の充足>という新しい領域は,<食料調達,家族を守る>仕事の延長として,男性に振り分けられてしまったわけです。以後,「炊事,育 児,付き合い」の領域をA,一方,「政治,経済,個人的楽しみ」の領域をBと呼ぶことにします。

     このA,B分離の過程には,よりどころとなる共同体が,家族を超えて,大きくなりすぎた(国家,究極にはグローバル)ことがあります。生きるべき共同体 が大きくなりすぎたことによって,この二つの領域は,近代以後は,融合しません。二つの別な領域になります。そして,そのことによって,女性,男性も二分 されてしまったのです。男女の差別には,A,Bという領域の差別が伴っています。ここが,男女共同参画など言って,理念的に,先だって,男女の区別をなく しても,結果がうまくいかない原因があります。2つの領域が現実に融合していないところで,男女を一緒にしようとしても無理があります。法律や理念の下で は,政治,経済,娯楽の分野では,男女は融合しても,炊事,育児の分野では,男女の融合は難しい,あるいは遅れているのです。

     つまり,通俗に言われるように,古い時代には,男女は差別されていたが,近代になって同権になったというのではなくて,古い時代は,それなりに融合して いた男女が,近代になって,Bの領域が成立して,それが,Aと融合できなかったものだから,男性と女性も分離してしまったのです。男女の分離は近代のもの だということになります。

     AとBが異質のものであるとすれば,女性からは,Bに参加したいという希望は出てくるだろうし,男性の方は,なるべく女性をAに閉じ込めておきたいとい うことになるでしょう(Aは人生に欠くべからざるものであるから,なくすわけにはいかない,Aを空にして,みんなBに移るわけにはいかないのです。誰かを Bにおかないわけにはいかない)。問題の底流はそういうことなのです。もちろん,原理的には,今日,Bの世界は女性にも平等に開かれ,その方向に向かって はいます。しかし,現実には,女性のBへの浸透は,実際には,権利的な問題,能力的な問題が絡んで,十全とはいきません。それは過渡期だからなのか,それ とも,何か本質的な問題が隠されているのか。Bは女性に対して十分に開かれないまま,一方,依然として,Aは女性の領域とされます。だから女性が,Aから 脱出しようとすると,A,Bの両方に関わるという,超能力を要することになります。国の援助,市場の参入(外注),男性の意識改革,などが,今行われつつ ある策でしょうが,本質的な問題がその奥にあるので,うまくいくかどうか。

     私は,このAとBの間には,女性,男性の対立の問題より奥に,もっと本質的な問題があると思うのです。それが,この欄で,私の言いたいことなのです。
                                                (次に続く)

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    #8

    荻原 欒 (月曜日, 07 10月 2013 22:06)

     
    (承前) (#35の続き)
     言いたいことは,本来,人間が生きる,生活するということは,Aにおける出来事,Aの実践以外の何物でもないということです。人間が生きるとは,「炊 事,育児,人間関係」に生きることなのです。今日は,人間生活に,本質的な,第一義的なのは,Bに属することがらの方であると,誤解(洗脳)されています が,Bは,本来は,Aがうまくいくための道具であったのです。すなわち,国家,社会の成立は,生活をやりやすくするための,あるいは,生活を持続させるた めの便宜(道具)であり,市場の成立,産業社会,企業組織もしかりです。生活とはAそのもののことです。個人的な満足の追求も,例えば,娯楽などというの は,Aの生活の息抜き,なのです。Aは本体,目的,BはAの実践を効率よくするための,一つの手段,道具,したがってAに対して従的ものであり,そのため の工夫としての,作られたもの(作りもの)なのです。

     ところが,この,本体(目的)と道具(手段)が,今日逆転してしまっています。今日では,人生とはBである,つまり,人生とは,政治に参加することであ り,企業で働くことであり,個人的楽しみを享受することでるとされます。ものを食べたり,子供を育てたり,人と付き合うこと(共同体,家庭を作ること) は,企業で働き,楽しみを享受するための,条件にすぎない,つまり,手段であるとされます。とすれば,それについては,最小限のなるべく少ない負担で,通 過したいということになるのです。

     そう言ったとらえ方を加速するのは,Bの世界ではすべては金に換算され,金になる世界です,すべてには値段がついている。一方,Aの世界の物事には,値 段がつかない(もともとの意味での,炊事,育児,付き合いには,市場が成立してないからです)。貨幣価値を中心に考える立場からすれば,誠に頼りない,魅 力のない世界なのです。

     だから,炊事でも,育児でも,付き合いに費やすエネルギーでも,その充足こそが,人生そのものであり,目的であるという,本来の立場に戻ることが,<炊 事,育児,付き合い>をどのようにやるか,さらに,男女差別の問題の解決の出発点になると言いたいのです。つまり,Bの世界は,手段が実体に間違って見ら れるようになっただけの仮想の世界であるから,捨ててしまえ,それが,曽野さんが提起し,上野さんや,高橋さんが怒った問題の原点の問題なのです。

     ですから,本当は,Bの世界を,なくしてしまえばよい。人間はAの世界に生きることにすればよいのです。とはいっても,Bの世界の便宜さというものは捨 てがたい,またそのためのインフラというものが,莫大に構築され,蓄積されているわけです。全く無にするというのは非現実的です。わたしはだから,すべて を無にせよとは言うのではない。しかし,まず,これらが本来は手段であったこと,本体ではないこと,このことを自覚して,Bに当たれというのです。具体的 には,Bの世界を限りなく,自己増殖的に成長させるのではなく,どこかに線引きをして,その線より向こうは,捨て去る。そして,その線をどこに引くかが, 人類の知恵,マネジメントなのだろうと思うのです。線はなるべく狭く引くのがよい,決して拡大方向には考えない。

     それに従って,私の解決法を具体的に言えば,つまり,AとBが融合可能である範囲に,私たちの生活の領域,範囲を絞って生きればよいのです。今日なされ ているよりも,もっと小さい世界を想定し,そこにお互い生活すればよいのです。(グローバルなど,その対極で,本来の人間生活に対して,内部矛盾を含んで とんでもないことです。)

     もう一つ言えば,今日の社会問題の解決には,そのよって立つ前提,原理を自覚し,そちらを変えることが必要です(社会に対する,生活に対する,生きるこ とに対する,パラダイムの変換とでもいうべきことです)。与えられている,前提,原理の中で,問題を解決しようとしても(こういう立て方で立てた問題を内 部問題と言います),問題自体が,その前提,原理の中では解けないような,深刻な,大きなものになっています。
     例えば,日本を,国防軍を作ることによって,世界に認めさせよう,強くしようというようなことは,究極の問題ではなく(その問題の解決によってみなが ハッピーになるというようなことではなく),近代国家(その一つとして日本国)というようなものが必要かといいうようなことを議論しないと,この問題は解 決しません。
     また,好景気にするにはどうしたらよいか,景気が良くなれば自動的に問題はすべて解決するというようなことではなく,一体,経済活動にどれだけの意味があるのかというのが,根本的な問題なのです。
    今日,世界は,その手の問題に直面しているということです。政治とは何か,経済とは何か,人間(個人)とは何か,こちらを考えなければいかない,そういうことです。

     長くなってしまいましたが,こういった問題に興味のある人は,私のブログ,「第二世代の女性論」「近代主義批判,脱成長,共同体,福祉社会」「真の意味での責任と自由―今日の日本社会の根本問題」を読んでみてください。

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    #9

    荻原 欒 (土曜日, 19 10月 2013 00:11)


    朝日新聞10月8日(火)文芸時評の欄に,赤江達也(台湾高雄第一工科大学)著,『「紙上の教会」と日本近代』の紹介がありました。要点は,

    ・ 内村鑑三に起源をもつ,無教会主義の特徴は,既存の教会制度を拒絶し,信仰を共有する者同士が,勉強会での対話を通じてつくられる雑誌や集会といったつながりによって信仰を広め,継承していく特異の仕組みである。これを内村は「紙上の教会」とよんだ。

    ・ 内村以後,戦前戦後を通じて,矢内原忠雄,南原繁,大塚久雄を頂点として,多くの人材を輩出し,特にエリート層に多大な思想的影響を与えた。

    ・ 信徒が聖書の勉強会を開き,雑誌を発行。異なる勉強会への参加者が互いに購読し,意見を表明しあう。こうした雑誌は,1937年に29誌だったが,1962年には61誌に達する。

    ・ 赤江氏はいう。「雑誌や読書会を媒介とするネットワークの中で,穏やかにつながりながら自らの内面を見つめる信仰のあり方はきわめて現代的だ。内村にとっての雑誌の意義は,今のインターネットに近い。私たちの内面とメディアの関係を理解する手掛かりになる。」

    これは無教会主義キリスト教に絡んでの話ですが,私は,ここでキリスト教を論じようというのではありません。言いたいのは,
     こういった,無条件に開かれたものではなく(→そうすると普遍的原理の押し付けになりますから),限定された人数における集会の成立(→直接相手が見える範囲ということです),
     そして,それを補完するものとしての冊子の編集発行(→書くこと,文字になることによって,事柄が深まり,また,ことがらの本質が見えてきます),
     さらに扱われているのが商品の広告というようなものではなく,内面に関わる話題であること(→人数は有限でも内面に関わることによって,普遍性を持った話題になるのです),
    こういったコミュニティの成立は,今日の社会を考えるとき,有効なものだと思うのです。

    歴史的にいって,大正期,戦前,戦後のある時期までは,こういったコミュニティは存在し,それぞれの領域で,生き生きと,活動しており,日本人社会の中 で,ある役割を果たしていたと思うのです。その伝統が今日失われたように見えるのは,小さなコミュニティへの関心が不人気になったことにあります。人々 が,日本国とか,グローバルとか,言ってしまえば全体的なものを仮想し,それをよしとして,その中に,自分たちは,生きているのだ,生きていけばよいの だ,と考えるようになったことです。その底流には,政治がらみには,世界は統一された秩序の上にあるべきだというような(あるいは,正義は唯一だとするよ うな)原理主義,経済がらみには,市場優先主義,経済成長主義,それに従ったグローバリズムなどへの傾倒があります。こういうのを,普遍主義と総称しま す)。

    私自身,かつて,ある知人の好意で,無教会主義キリスト教の「待晨集会」の機関誌『待晨』を数年にわたって寄贈してもらい,それはわたしにとっていろいろ な意味で啓発的でした(この集会は,酒枝義旗師のもとに成立した)。ただ,無教会主義キリスト教は,多くインテリ層に受け入れられ,したがって,ある部分 合理的で受け入れやすいが,ある種インテリくささが伴う傾向はあります。

    それに対して,もっと庶民的(?)には,いわゆる新興宗教の会合(下部組織的)があります。これこそ,うまく機能すれば,まさに内面に関わるテーマを少人 数で議論するコミュニティといえます。また,そこには,冊子,文書も,飛び交わっています。私は,この種のコミュニティは,社会的に大いに評価されるべき だと思うのですが,ただ,宗教が絡んで,問題は,カルト化と(全体)組織化をどう超克するかの問題です。特に,オーム事件以後は,まさにこの点で,宗教自 体が信用を失い,宗教は,怪しいものとして,危険視されるようになりました。しかし,宗教的思考,伝統は,政治,経済,倫理を超えて,人間にとって根本的 なものだと思うのです(社会を構成するのは,政治,経済,倫理,宗教の4種の活動だと私は思うのですが,今日は,政治,経済が人間にとってすべてだとされ ている,そこに今日の社会の行き詰まりがあるのです)。そういっても,「カルト性」,「(ヒエラルキーを伴う,全体的な)組織性」,そして,「セクト 性」,これらは,宗教について,(本当は最初に克服されていなければならない)本質的テーマです。しかし,それらは,諸刃の剣でもあって,現実の宗教を成 立させる根本的要因であると同時に,根本的毒性でもあります。そこをどう扱うかが,解決されていないと,毒にはなっても薬にはならないのです。しかし,こ うした危うさを含みながら,小さなコミュニティ,内面的な議論は,こういう場で,生き生きと行われていることも事実です。

    上記の本で,もう一つ注目したいことは,「内村にとっての雑誌の意義は,今のインターネットに近い。私たちの内面とメディアン関係を理解する手掛かりにな る。」という項です。つまり,こうした小さな,内面的な問題を扱うコミュニティは,今日的には,ネット上に構築することができるのではないかという可能性 の指摘です。

    じつは,今回,この文章を書いた目的は,私のサイトの掲示板を,そのようなものに作り上げられないかなという一つの発想なのです。私は,紙を伴う活字によ る媒体は,我々にとって離れがたい,かつ有益なものだと思います。ただ,冊子を紙で編集する,発行することは,当事者に多大の負担をかけます。負担とは, 編集発行上の仕事と,金銭の問題です。その点から,小集団の機関誌は,よほど環境がともなわないと,長く続くことは困難でした。その点はウェブ上ではかな り,簡約できます。

    それから,コミュニティですから,人集めの問題が出てきますが,これまでのそのようなコミュニティは,最初から,カリスマとは言わないまでも,中心人物, リーダーがおり,別に集めるわけではなく,そこに向かって人は集まってきたものでした。そこから,集会も,雑誌もできてくるわけです。ネットの場合,ネッ トは,それなりに開かれていますので,人の限定というところをどう扱うか。また,旧来を踏襲して,ただ,紙による雑誌の代替をのみ,ウェッブに求めるとい うのでは,それはそれで,便利ですが,例えば,ウェッブの速効性とか,双方向性を活かさないのは,宝の持ち腐れのようにも思われます。かといって開いてし まうと,まさに今日のネットの欠陥(匿名性,犯罪性,実体のなさ,・・・)にさらされ,究極的には,出発点であった,直接の人間関係が成立しないという状 況に陥ります。そこの問題です。

    それに関係して,これは朝日新聞の「耕論」という欄に,10月16日付で,岡田斗司夫の論があります。曰く

    ・ 「誰でも参加できる万単位に広がるツールは安心できない。心を許せるのはより狭い小規模限定型です。」
    ・ 「ソーシャルメディアについて僕がよく言うのは,使い分けなさいということ。自己を表現したいなら,一番大事なのはブログ。いわば自分の作品だから,きち んとしたものを載せる。実名主義で自分の経歴も公にするフェイスブックはコネを作りたい人の異業種交流会。短いつぶやきを投稿するツイッターは愚痴を語る 場所です。最近はやりのLINEは特定の子を外したグループを簡単に作れる,いじめ世代のためのツールです。何でも話せる場を求めるのは間違いです。」
    ・ 「(今日の傾向として)オープンからクローズに遷移するソーシャルメディアですが,現段階ではセミクローズの小規模限定ネットワークが一番でしょう。オー プンな場所,たとえて言えば東京に来れば何かができるというのはウソ。自分に合う“まち”を見つけることが大切。限定小規模ネットは,そんな“まち”で す。」

    宣(うべ)なるかな。かくて,我が掲示板を,互いに顔の見える(小規模,限定された)集会,そして,機関誌としたいと,そんな方向にアイディアを抱いたの ですが,現状は,編集能力の欠如,カリスマ性とは言わないまでもリーダーシップの欠如の故に,混沌としています。「話題が一般的ではない」(→ひねくれて いる),「文章が長すぎる」(→議論が入り込んでいる),そうではありますが,そうしないとなんだか自分が納得しないのです。でも,決して急ぎませんが, 長い間に,そんな方向に育っていったら面白いとは思っています。

    掲示板とは言いながら,私以外には,口出ししにくい雰囲気に仕立ててしまっていますが,どうぞ遠慮なく,いろいろな話題を,提供してください。そこに,人 が見えて(人間性とか生き様ということです,職業とか,地位ではありません),内面的な問題へのヒントが語られているなら(内面的な問題とは,心の秘密と か,感情的な,個人的な問題という意味ではなく,広く,考えさせられる問題ということです),「また楽しからずや」です。

    私の掲示板はともかくとして,こういったコミュニティがあちこちに成立することは,(人間的に,知能的に,衰微に向かっているとしか思えないような,)今日の人間社会の再生に絡んで,有効かつ必要なことではないでしょうか

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    #10

    87期田中です (火曜日, 29 10月 2013 19:01)

     

    御無沙汰しました。
    8,9月と猛暑の為、ヒマでした(笑)データ的に判って入るのですが、どうしようもなく、
    「どうしよう、どうしよう」と悩むだけで何も行動できませんでした。
    そうなると、本も読めなくなりますね。
    で、10に入ったら急に涼しくなりいきなり忙しくなり・・・。

    ところで先生は11/3の秋霞祭には行かれますか?
    私も出来たら行きたいのですが。
    先週は嫁さんの母校の学園祭に行きました。嫁は部活やってなかったので、学園祭に行くのは初めてで、
    今更ながら後悔してました(笑)

    ではまた

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    #11

    荻原 欒 (水曜日, 30 10月 2013 14:50)


    田中君,ご無沙汰。
    商売は俗にニッパチと言いますが,今年は,八が,八九になったのかもしれません。でも,10月ばっちりで何よりです。もうすぐ暮れになります。大いに稼いでください。
    学園祭は,よかったら,ぜひ,奥さんともども,行ってみてください。一度はよいでしょう。霞周辺も,懐かしい。ただ,このごろは,大学自体,建物も,雰囲 気も,学生気質も,変わっていて,そんなことを感じるのも,勉強になります。折角ですが,私は,今年は,学園祭に行く予定はありません。退職来,段々敷居 が高く感じられて,・・・。でも,退職とは,一般にそういうものなのでしょう。いつまでも,昔に張り付いていてはいけないのだろうと,思っています。
    近々に,また。

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    #12

    87期の田中正二です (水曜日, 06 11月 2013 14:42)

     

    先日は突然のお話にもかかわらず、夫婦ともどもお邪魔してしまい、申しわけありませんでした。
    ひさびさにお顔を拝見できてよかったです。
    奥様、ご母堂にもご挨拶が出来て、また結婚式でいただいたご挨拶のお礼も直接申し上げる事が出来、本当によかったです。ありがとうございました。

    たしかにだんだん静かな学園祭になってますね。
    後は学生会がそろいの制服(?)で、闊歩してる様子が異様でした。秋霞祭実行委員会のジャンパーを見ることもなく・・・。出店の場所が余っていてもったいない気がしています(笑)
    ではまた、近くに行きましたら、寄せてください!
    来年にでもまた、飲み会を~!

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    #13

    荻原 欒 (水曜日, 06 11月 2013 23:42)


    卒業生の田中正二君が,3日の日曜日に,久しぶりに大学祭を見学に来て(夫婦で),その後,私の家に寄ってくれました。しばし歓談,楽しい時を過ごしました。

    その折の話題は,
    (1)田中君は酒屋をやっていますが,自営業ということですね。商売は,客が来る時間帯もある,こない時間帯もある,売り上げの大きい月もある,少ない月 もある,要するに(客を)引っ張ってくるのではなく,待つ生活であり,トータルでどうかという話である。農業なども,種蒔きしたから収入があるのではな く,季節を通して,いろいろ尽くして,天候にも支配されて,収穫の時期,結果を待つ。それに対比すれば,サラリーマンは,月々必ず,入ってくるものがある (あの「植木等」の時代は気楽な稼業であったのですが,今は,何とも過酷なものにしてしまったようです)。だから,商売やに育つか,農家に育つか,サラ リーマンの子弟かで,生活感覚が違ってくる。夫婦でも最初はそうである。

    (2)田中君の店には,もとより,ショーケースであるガラスの冷蔵庫があります。私はこの頃,我が家の冷蔵庫も,同様にガラス張りの,段の多い,奥行きの 浅い,ショーケース仕様のものに変えたらどうかと思っています。そうすれば中に何が入っているか一目で分かる。現にどんな食材があるか,一望のもとに分か るから,目に見ながら,献立,調理の手順を決めていけばよいことになります。これは,合理的なやり方です。特に老人主婦の場合は有効でしょう。多くの家庭 のように,冷蔵庫が,それなりの奥行きをもって,扉によって,中が一望できない場合は,どんな食材があるか,記憶に呼び出し,イメージして,頭の中で,調 理の種類,手順を考えなければなりません。
    メニューを決めたり,手順を選んだりするのは,思考の作業ですが,思考の仕方には,大きく分類して,二つの方式があります。一つは,空観的に,図形的に考 える,もう一つは,時間的に,連続的に考える。言いなおせば,絵画的vs音楽的,俳句的vs短歌的,外面的vs内面的,そんなところでしょうか。私など は,質(たち)として,もっぱら空観的に思考します,そうでないと,何も出てきません。時間的に思考する人もいるのでしょう。ガラスの冷蔵庫の使用は,台 所の絵画化,調理の空観化ということです。グッドアイディアです。
    さらに,ガラスの冷蔵庫では,そこに,納豆2パック,豆腐が半分残っていることも目に見えますから,半年前の食材が,冷蔵庫の奥の隅に隠れているなどということはなくなります。
    このアイディアは,しかしながら,女性陣には不評でした。でも田中君とは,業務用冷蔵庫は,音がうるさいかもしれない,要する電圧が家庭用電圧とは違うか もしれない,まで具体的に詰めました。そんなことは改良すればよい。陳列ケースふう冷蔵庫を,商品化して売り出せば,売れそうに思うのですが。以上私のア イディアを,熱く,田中君に語りました。

    (3)もう一つ,私のアイディアを密かに教えました。それはかねてから思っていたことですが,テレビの受信機にラジオのチューナーを内蔵させたらどうかと いうことです。テレビ&ラジオです。値段的には微々たる上乗せでしょう。もちろんリモコンによって,ラジオをつけるわけです。こうすることによって,テレ ビの放送とラジオの放送が(選択において)対等の立場になります。テレビは今盛んですが,画像に(視覚イメージ)頼り過ぎて,作る方も,見る方も,深みが なくなっています。耳から音声だけで得た情報の方が,人々に考えさせるものを持ちます(文字情報だとさらに深くなります)。画像情報の欠陥を矯正する意味 でも意味があると思うのです。家内は,それなら,テレビの隣に,携帯ラジオを置けばよいではないかなど,言っていましたが,これは女の徹底しないところ で,それでは駄目なのです。一つと二つ合わせたのは違うのです。さらにこの頃どこの家庭でも,テレビを見ながら食事をするというのが普通になっているよう です。せめて,ラジオだけにした方が,食事に集中できます(本当はただ食事だけがよいのでしょうが)。

    以上,私の独演会でしたが,田中君は立場上,しっかりと聞いて,納得してくれました(多分)。私は,愉快だった。

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    #14

    87 (木曜日, 14 11月 2013)

     

    先生、写真拝領いたしました。
    ありがとうございました。

    ところで先生、ガラスの冷蔵庫の件ですが、思うに・・・かなり旦那衆には内緒で賞味期限切れの食料が消えていってるのかもしれませんよ(笑) それをいちいち旦那にチェックされるのはたまらん!ということで、奥様とうちの嫁は反対したのかもしれませんね(笑)

    ではまた
    寒い日が続いております
    どうぞご自愛くださいませ

    田中正二

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    #15

    荻原 欒 (月曜日, 25 11月 2013 23:47)

     


    23日の土曜日に,私が大学を卒業して,昭和40年前半の頃,教員として勤めていた高等学校の担当学年のクラス会に出ました。18人の出席で,皆さ ん,60歳を少し過ぎた年齢ですが,元気一杯でした。そのうち女子は13名,それぞれが,それぞれ流に一家を構え,子育て,舅,姑さん,あるいは,自分の 親の面倒見(介護)を果たし,(あるいは最中で),今は孫の世話の手助けなどしながら,さらに,仕事や,自己研さんふうなことにも励むという,なかなか立 派な生活ぶりでした。

    さらに言えば,この高校は,当時の定時制高校でしたから,多くの皆さんが,地方の出身で,中学を卒業して,昼は働きながら,多くが寮生活をしながら,夕方 から学校で学ぶという生活で,こういったいわば若いころの修行が,その後の人生,そして今日の安定に結びついているわけです。今の若者のあり方,教育のあ り方が不十分だとすれば,こうした,「早い年齢での自立」,「働きながら学ぶこと」,「寮生活」,これらを考えることは,示唆的だと思います。

    当時,高校への進学者の数は,今日と比べれば,特に地方では,驚くほど少ないものでした。例えば私は,今回のクラス会の諸君よりは10年ばかり前に,神奈 川県の相模原町の中学に通っていましたが,そこでは,クラスが50人ほどで,高校に進学する者は,5,6人でした。それは,日本が貧しかったというのでは なく,勉学すること,学歴を積むことよりも,働くこと,都会に出て大勢の中で身を立てていく,(そして,そういった中で,必要な技能,生きる智慧を習得 し,自らを高めていこうとする),そういった志向が,自助の精神が,社会に満ちていたということです。(金の卵などという言葉もその中で出てきたもので す)。そしてこの方向は正しいと思うのです。なぜなら,勉学は,あくまでも,(あるいは,高々,)身を立てていくこと(生活)の手段なのです。身を立てる こと(生活)が目的で,勉強はそのための道具なのです。生活の展開に資する範囲で勉強するというのが,勉強の本来のあり方なのです。今日は勉学や教育が大 きな顔をするようになって,その関係が逆になってしまいました。つまり,学校へ行くこと,高学歴を付けることが,生活の(人生の)目的になり,だから,親 は,子を大学にやるために働きます(母親は塾の授業料を得るべくパートに精出し,教育ママふうの思考は当たり前になります)。たまたま高学歴が職業や生活 に結びつく層では,それでもよいのでしょうが,そうならないで,教育や学歴だけが空回りするケースもあるのです。勉学,教育に振り回されてはいけません。 勉学,教育は手段で,道具で,あくまでも「生活が第一」(おや?)なのです。もっと言えば,皮肉なことに,日本の社会主義政党は,これまで,高校全入な ど,教育の充実を言ってきました。でも社会主義のキーワードは,勤労,労働にあるわけです。教育は,労働,そして生活の道具ですから,労働を意識せずに教 育を強調することは,手段を目的と,道具を結果と,誤認することなのです。社会主義に矛盾します。勉学や教育には,あくまでも,生活の中で,そのための手 段,道具として役割を限定してやらなければなりません。

    その意味で,少なくとも,当時の定時制という制度は,大局からいえば,教育の理想の現場だったと思うのです。その後の,全日制の発展や,進学率の増大より も,過剰な教育への志向よりも,定時制というシステムが,制度としても発展していれば,教育と勤労,生活のバランスの取れた,多分立派な社会が成立してい たと思うのです。以上が私の定時制への思い入れです。

    いずれにせよ,今日の日本社会の根本問題は,我々にとって,手段や道具ばかりが横行して,それが何のためにあるか,社会の目的が,しっかり自覚されていな いことです。それに付け込んで,目先の聞く利己主義者によって,手段や道具が,目的であるかのごとくに思い込まされ,その主導によって社会が動いているこ とです。それは,ブログで「金融」「マーケティング」を論じた折に,述べた通りです。教育についても同じような逆転がなされています。目的をしっかり押さ る,それが,今日の根本問題です。それでは目的は何でしょうか。その考察が問題解決のカギです。近々に私見を述べたいと思っています。

    もう一つ,別な話題ですが,クラス会の場で,HPを開設したので,読んでみてくれと,宣伝しましたら,出席者の一人N君(女性)から,早速にメールをもら いました。掲示板の,#13 の,ガラスの冷蔵庫への感想で(私はまだこだわっています),そこには物忘れの解消法も載っていますので,以下紹介しておき ます。
    ・・・・・・・・
    今日はお忙しい中をお出かけ頂き、有り難うございました。
    いつも興味深いお話を伺うのですが、今日も明日の座禅会に結びつく話題を頂き嬉しい事でした。
    明日はまたどんな風に繋がるか、とても楽しみです。

    ブログの透明な冷蔵庫には思わずドキッとしました。
    思い当たる節が沢山あり、そこにあるのに見えていないことがどんなに多いことかと思います。
    捜し物をするたびに、ほんの一枚の紙が乗っているだけなのに見えない,見つけられない。
    そんなことがよくあります。
    その度に我が家には「座敷童」がいて、いたずらをして隠しているのだと
    座敷童のせいにします。
    「お願いだからいたずらをやめて!」とお願いをすると
    不思議に見つかります。
    ・・・・・・

    前段の記事は,最近発行された幻冬社新書に,藤田一照,山下良道,共著『アップデートする仏教』というのがあって,良道さんの方は,私の知っている人で, このHPに,良道さんのサイトをリンクしてあります。藤田一照師の方は,面識はありませんが,その著作はいくつか読んでいます。たまたまクラス会でN君と 話した折,彼女が,明日,一照師の葉山の道場での参禅会に行く予定だという話が出て,そこで,この本を紹介して,話がつながったということです。この本 は,このHPで紹介しようと思っているのですが,きちんと書かなければと,ちょっと止まってしまっています。一照師は,彼女の,これまでの人生のネット ワークの一つの結び目として存在し,良道さんの方は私のネットワークの結び目として存在する,それが,クラス会というところで,繋がったという面白さで す。まことに,人間とはネットワークのことであり,開かれたネットワークは,多方面にいろいろと繋がっていくということです。
    後段は,探し物をするとき,試してみてください。私がこの頃する,なくしものというか,探し物のベスト3は,メガネ,免許証,携帯電話です。携帯電話が一番探しやすい(でもとんでもないところで音がします)。

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    #16

    荻原 欒 (木曜日, 28 11月 2013 22:45)


     マーク・ローランズというアメリカ人の哲学教授がいて,以前に『哲学者とオオカミ』というのが,ベストセラーになり,翻訳もされました。これは,私など 文弱の徒は圧倒される本で,家で,オオカミを飼い,運動のために一緒に野山を駆け回る,そしてその過程の中で,哲学の問題を考える,というようなことでし た。今度は『哲学者が走る』というのが出て,最近翻訳されました(ともに白水社刊)。そちらを私は読んでいませんが,11月17日の朝日新聞の書評欄に取 り上げられていました。以下では,ローランズではなく,その書評欄の記事に,触発されて,ちょっと述べておきます。

     書評子は,作家の角幡唯介氏で,この本の主張するのは,「人生には何かのためではない内在的な意味がある。それと同様,走ることにもそれ自体に意味があ り,・・・」であるとします。そして,「印象的だったのは,トルストイが『懺悔』で書いたという心の動揺だ。財産があるからといってどうした? 有名に なったからといってどうなる? 子孫の幸福を願うのはなぜだ? この三つの質問に答えられない限り生きていくことはできないはずだ。そのことに文豪は動揺 した。この動揺は,生きることの究極の意味はどこにあるかという本書のテーマに直結する。・・・」と述べています。ここでの私の興味は,このトルストイの 見解です。

     トルストイはその著『懺悔』で言っています。知識人と呼ばれる階層の人々は,自分はこの3つの問に答える能力があり,またそれに答えるのが自分の仕事だ とし,うぬぼれて,あるいは,見えを張って,人々に,これが正解だというものを説く。しかし,真摯に反省してみると,この問は,実在的にも(科学によって も),理性的にも(哲学によっても)答えられないもの,あるいは,そもそも答えがないものではないか。トルストイは,そのことに気付いて,それ以来,もし そうであるとすれば,人生には「目的がない,意味がない」,「そもそも人生は無である」ことになるとして,そのことに深く絶望して,それならば,人は自殺 すべきではないかとまで,思いつめます。

     しかし,その後,そういった状況にあっても,大衆は,額に汗して働く民衆は,だれも,自殺などせずに,過度に悩みもせず,考えすぎもせずに,楽しいこと も,苦るしいことも含めて,現に生きているではないか。誇大に悩んだふりをし,考える真似をし,正解がないのにかかわらず,これが正解だとして,大衆を導 こうとするのは,いわば知識人だけではないか。そして,大衆が,このように,泰然と生きていっているについては,その底に,素朴に,何かを信じること,つ まり信仰があって,すべてがそこから出発しているからではないか。知識人は,直接に信仰に触れることなく,その信仰が嘘であるか本当であるかなどという, いわば浮ついた,理性的な反省,吟味ばかりしている。信仰とは,そういう過程を飛ばしたところに成立するから,まさに信仰なのである。つまり,大衆の考え 方の中には,人生の外に何かを定立して(それが知識人の役割とされる),そのために生きるというのでなく,「生きるために生きるという等式」(これはトー トロジーで無内容であるが,内在的な意味とも言える)があるのではないか。かく,公認のキリスト教信仰でもなく,哲学でもなく,そういう意味での信仰を得 て,彼は立ち直ったわけです。

     でも,私は,ここでそういう信仰論議をしようというのではありません。上のトルストイを動揺させた3つの内容は,下世話に言えば,生きる目的,人生の意 味は,財産(を得ること),名誉(を得ること),血縁(を特別なものとすること)の他には見いだせない,逆に言えば,私たちの人生は,この3つによって成 り立っているに過ぎない,ということです。(そしてさらに,この3つに尽きているというのも深い考察です。)そして,ちょっと反省してみればわかります が,まさにその通りなのです。この3つの他に,人生に意味を与えるものは見つかりません。そこを考えてみたいのです

     財産とはつまるところ貨幣です。貨幣があれば,この人生において,あらゆる欲望がかなえられます。つまり,幸せになれるということです。財産は幸せにな ることの十分条件である,その意味で,人生に意味を与えるものということになります。そのことは,もし,財産が無意味なものとなれば,生きる意欲が湧かな いであろうということから,推定できます。

     でも,世の中には,お金はいらない,金にならないことの方に人生の楽しみ,意味を見出すのだという人もいます。その時には,そこに,金に代わって,名誉 というものが考えられています。名誉とは,現在,あるいは,将来において,自分の属する集団(共同体)の中で,褒められる,認められる,記憶される,そう いうことです(あの人は,人のために無償で尽くした,天才であった,人格者であった,など言われることです)。これがあれば,金以外に,人生に意味を見い だせる,ということになります。

     このようにして,金と名誉が人生に意味を与えるものだと,とりあえず言えます。逆に,金を否定し,名誉を否定した人生とは,自分にとって何でしょうか。 人生が成り立つのでしょうか。生きることのインセンティヴが存在するでしょうか。金や名誉を超えた,切実なものは,この世に存在しないのでしょう。そうし たものがあったとして,それが見つかれば,人生の意味付けは,また変わってくるのですが。見つけたとすれば,その発見は,ノーベル賞を超えるものです。

     第三の,「子孫の幸福」ですが,これは,上記と少し視点が違うかもしれません。トルストイの本には「私および私の家族がなるべく幸福になるような生き方 をしなければならぬ」とあります。私が幸福になる生き方というのは分かります。それは財産と名誉の獲得です。そこまではよいのですが,問題は私の家族とい うところです。なんで,差別的に自分の血縁を大事にすることが,人生の意味になるのかです。でも実際には,そうなっています。分かりやすい下世話な例を出 しましょう。遺産相続という制度です。生前に財を成したとしましょう。その財がその人のものであるというのはよしとします(私有財産は認めます)。しか し,死後,なぜその財が血縁に譲られるのが正当とされ,あるいは,人はその財を子孫にのみ譲ろうとするのでしょうか。すべて財産は,死後は,国庫に没収さ せるというのも,一つの財産処理のやり方なのです。でもそれはみとめられない。第一に,そうしたとしたら,人々に,財を成そうという意欲,つまり,働こう という意欲が,急速になくなってしまうでしょう。なぜか知らないけれども,人は,子孫のために働くのです。現実には,財産を子孫に与えることが(血族とい う特定の対象にのみ与えることが),働くことの(生きることの,人生の)インセンティヴになっているのです。

     以上の通りだとすれば,人生とは何かは簡単で,金を得ること,名誉を得ること,子孫の幸福を図ること,そのどれかだということになります。そしてトルス トイのように,金を得たからといって,名誉を得たからといって,子孫が繁栄したからといって,それが何なんだ,ということになると(特に個体として死んで しまったあとでは何なんだとなると),それはそれでその通りで,その後は,並列する第四の選択肢を探すか,それがないとすれば,絶望するか,あるいは,攻 め方を変える(パラダイムを変える)か,ということになります。トルストイは,最終的には,パラダイム変換の道をとったわけです。多分これしかないでしょ うし,私にとっても,パラダイムを変えるというのが,知的に,もっとも興味深い道筋なのです。
    この先は,またいずれ書きます。

     最後に,参考までに,トルストイを引いておきましょう。
    「・・・突然,次のような疑問が起こって来るのだった。<よろしい,お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と,三百頭の馬を持っている。が,それがど うしたというんだ?>そして私はしどろもどろになってしまって,それから先何を考えてよいのか,わからなくなるのだ。またある時は,子供たちを自分はどう いう具合に教育しているかということを考えているうちに,<何のために?>こう自分にいうのであった。それからさらに,どんなにしたら民衆に幸福を獲得さ せることができるだろうということを考察しているうちに,<だが俺にそれが何のかかわりがある?>突然こう自問せざるを得なくなった。また,私の著作が私 にもたらす名声について考える時には,こう自分に向かって反問せざるを得なくなった。<よろしい,お前は,ゴーゴリや,プーシキンや,シェークスピアや, モリエールや,その他,世界のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかもしれない。―が,それがどうしたというんだ?>それに対して私は何一つ答えるこ とができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ,生きていくことができないのだ。しかし答えは ないのだった。
    自分の立っている地盤が目茶々々になったような気持がした。そして,立つべき何物もないような気持がした。今まで生きて来た生活の根底が,もはやなくなってしまったような気持がした。今や自分には,生きていくべき何物もないような気持がした。」
      (トルストイ『懺悔』,原久一郎訳,岩波文庫,p26)

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    #17

    荻原 欒 (水曜日, 18 12月 2013 22:08)


    先週,14日の土曜日は,2つの会合をこなしました。

    まず,40数年前に私が高校に勤めていたときの生徒であったS君(女性)は,久しく,朗読,読み聞かせ,というような活動と勉強を続けているのですが,そ の所属する朗読の会「葦笛」の発表会が,川崎駅そばの「ミューザ川崎」交流ホールで2時からあり,これに参加しました。彼女は,斎藤隆介の「モチモチの 木」を読ましたが,長く訓練を受けてきているので滑舌がはっきりしており,学校などでの読み聞かせの実践をへて,なかなかに達者で,聴かせました。

    併せて,朗読ということについて,改めて,気づかされました。① 今,テレビ,映画,漫画,動画など,圧倒的に映像的な表現が優勢で,その中にどっぷりつ かっていますが,それに対して,一方に,言語を介しての表現,認識があるわけです。読書,そして,そこから派生するものとしても朗読は,後者ですが,こち らは,直接に像がそこに与えられていないだけに,想像,思考を通した自由度があり,内面に向かう深いものがあり,創造性があります。② 話芸の一ジャンル として朗読ですが,もらったプログラムに,「作品の味,表現の味,作者の味,を読み,楽しむ会」とあった通り,目をつむって聞いていると,そういった味わ いとともに,話者の技量がまた聴きどころで,興味深いものです。徳川夢声,中西龍,森繁久弥,などの芸に連なるものです。

    ついでに面白かったのは,発表者のみなさんが,登場してマイクの前に座ると,一様に,まず,懐から,メガネを出してかける。そういうことです。

    その後,川越市にもどり,私が勤めていた大学の近くのなじみの店で,卒業生三人と,その縁で知り合った近隣の住人お二人,という奇妙なメンバーで,今年の 忘年会をやりました。毎年やっているのですがこの日は,昨今の世情を反映してか政治ネタが話題にされ,いろいろ話が出たのですが,圧倒的なのは,次のこと でした。

    このメンバーの中に,福島の原発地の出身の卒業生K君がいて,彼の両親は,そちらにおり,K君もしばしば帰郷し,そちらの新聞,放送情報を承知しているの ですが(こちらとはかなり内容が違う),彼が言うのに,結局,この問題の最終的解決には,原発の周辺,かなりの地域を,チェルノブイリのように,囲い込ん で入れないようにする,こうせざるを得ないだろう。解決策はその方向しかなく,住民感情も,進展のない状況の中で,そのように提案されれば,結局は,段々 その方向にあきらめることになるのではないか。その気配はある(政権はそのタイミングをみているのでしょう)。ただ,その際は,そうであっても,① いつ ものように,なし崩しに,補償と,口先で,ごまかすのではなく,原発事故というものの実体を隠さずに明らかにし,とんでもない事柄であった,大失敗であっ たと,認めた上ででなければならない。(ということは,責任の所在がはっきりするということでもある)。福島の一部を廃地にして葬ったうえで,まさか,他 の地区で,原発を継続することはできないであろう,この二つは両立しない,そういった選択肢はない。② この福島の一部地域の廃地処分は,今後の日本社会 の向かうべき方向,今後のビジョンが先にあった上で,その中で,意味づけられなければならない。日本のあるべき姿が提示されて,その中で,認められるとす れば認められることである。そうでないと,単なる都合の悪いものの切り捨て,当事者以外の国民の利益を守るためのご都合主義ということになり,これではい つものパターンであり,軍事基地における沖縄の扱いと,同じになる。以上が,K君の見解に,私の解釈を強く加えた解説である。

    このことのみならず,一般論として,① つらい,嫌のことがらでも,自分に都合の悪いことがらでも,ことがらの真相(現状)をオープンにすること,隠さな いこと,そして,② 先の見通し(目的)を,示してその中で考えることが大切です。これが論理的に,合理的に,正統な解決法なのですが,今の日本の政治状 況では(もちろん政権には)できないでしょう。それは,これまで,その場しのぎの,原因をはっきりさせない(原因がはっきりすることは責任の所在がはっき りすることである),なし崩しのやり方をやってきたからです(敗戦処理しかり)。(民主主義と言いながら)利害関係で政治をやってきたからです。自己の派 に有利に事を運ぶには,現状と目的をはっきりさせないことが(すなわち,現状の真の姿と目的を隠し,国民を自派に都合よく誘導することが)が有利です。悪 い意味に解釈した「倚らしむべし,知らしむべからず」の実践なのです(これは,いちいち説明しなくとも人々が納得してついてくるような政治を行え,あるい は,人格を磨け,ということでしょう)。

    原発の後始末を,結局は現地の福島に押し付けるというのは,基地の問題は沖縄に押し付けるというのと同じ構造の,いわば,福島の沖縄化といえます。そこに 押し込めて,その後は見ないふりをして,それによって,その他の地域は,負荷をこうむることなく繁栄し,そして,そのことの言い訳のために,絆というよう な言葉あるいは感情をあおるというのが,これまでのやり口でした。原子爆弾や太平洋戦争は広島,長崎に封じ込め,基地や軍事同盟は沖縄に封じ込め,そし て,原発,産業第一主義は福島に閉じ込め,かくして,ヒロシマ,ナガサキ,オキナワに続いて,福島もフクシマというカタカナ地域になるわけです。今回もそ んなふうに進む予感がしますが,そうではなくて,こういった失敗を(失敗を認めると,すぐに,自虐だとさわぐ,一部勢力がありますが),ゴマ化すのではな く,新しい日本社会を作るきっかけにすべきだというのが,この前の敗戦や,今回の地震災害,原発事故(いわゆる3.11.)に隠された意味なのです。

    真相を隠す,責任を明確にしない,全体ビジョン(目的)の中に事柄を置いてものを理解しない,陳腐な感情論のなかに事柄を投げ込んで終わりにする,したがって解決策が場当たりなる,私もその通りとして,大いに納得したのです。

    一日の内に,2つの楽しい会合に出席した心地よい疲れと,因果関係はありませんが,次の日曜から,帯状疱疹を発病し,初期に発見したので大したことにはならないでしょが,今年初めて,病院に行きました。

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    #18

    荻原 欒 (土曜日, 28 12月 2013 23:23)


    知人からもらったメーリングリストに,あるブログからの引用で,「死を前にした人が語った後悔している20」というのが紹介されてありました。題目は大仰 ですが,体系的な論考ではなく,いろんな人の感慨を,とりあえず20集めたものです。面白かったので,ここでも紹介しておきます。ちょうど年末ですから, 「死ぬ前に」というような言い方から,ヴァージョンを下げて,「今までの人生において」とか,「今年を終えるに当たって」などとして,今後への反省,来る 年への励みに考えてみたら,面白いかも知れません。

    ただ,どこが出どころか,調べてみましたら,「カラパイア」という会社のブログに出ていて,さらにそのもとは,海外のあるサイトのようです。以下は,カラパイアの人が日本語訳したものです。
    次のブログがもとで,そこには英文もついています。
    http://karapaia.livedoor.biz/archives/52145721.html 
     
                     ・・・・・・・・・・
    1.他人がどう思うかなんて、気にしなければよかった。
    他人は自分が思うほど自分のことを考えてはいない。そんなことばかり気にして無駄なエネルギーを使うのはもったいない。

    2.もっと幸せを噛みしめて生きればよかった。
    「幸せ」は自分でなんとかできる、心の持ちようであることに気づいたときは、もう遅すぎた。

    3.もっと他人のために尽くせばよかった。
    他の人のためになにかをすることは、人生をより意味のあるものにする。

    4.あんなにくよくよ悩まなければよかった。
    一歩離れて自分を笑い飛ばせれば、人生はより楽しくなる。

    5.もっと家族と一緒に時間を過ごせばよかった。
    仕事にかまけて、世界中を転々とし、家族に不満をもちながら年をとっていく人もいるが、優先すべきところが間違っていたと気づくだけだ。

    6.もっと人にやさしい言葉をかけてやればよかった。
    相手をちゃんと評価せず軽く見た結果は、たいていまずいことになるものだ。

    7.そんなに心配しなければよかった。
    日記をつけて記録をし、過去を振り返ってみたら、どうしてあのときあんなにやきもきしたのか不思議に思うだろう。

    8.もっと時間があったなら。
    年をとるにつれ時間がたつのが速く感じると言う人が多いが、子供の頃過ごした6週間の夏の休暇は、確かに永遠に続くような気がした。時間が加速度を増しているなら、一瞬一瞬を有意義に過ごすことがさらに大切だ。

    9.もっと冒険して、思い切って生きればよかった。
    なにを冒険だと感じるかは人によって違うが、ぬるま湯の人生を送っているときにそれには気が付かない。後になってみれば、人生で大胆にならなければいけなかった多くのチャンスを逃したと感じる人もいるだろう。

    10.もっと自分を大切にすればよかった。
    病気に苦しんだり、年をとってくると、若いうちにもっと健康的な食生活を送り、体を動かしてストレスをためずに生活しておけば、今とは違っただろうにと思うものだ。

    11.他人の言うことより、もっと自分の直観を信じればよかった。
    自分で決断し、その決断に自信をもてば、達成感が得られ、人生を楽しむことができる。自分の本心を裏切ると、怒りとやりきれなさを生むだけ。

    12.もっと旅に出ておけばよかった。
    旅は人間の心を大きく成長させる。いくつになろうが、子供がいようがいまいが、旅はできるものだ。しかし、お金がない、家のローンがある、子供が小さいな ど、旅に出ない多くの人たちはあらゆる理由をつけて自分に言い訳する。後悔して初めて、どんな状況でも旅は可能だったということを知るのだ。

    13.あんなにがむしゃらに働かなければよかった。
    ほどほどにしておけばよかったという願望はいつもあった。そして、出世してお金持ちになることは、必ずしも充実した人生とイコールではないと気づく。

    14.一瞬一瞬をもっと大切に生きればよかった。
    子供の成長を見ていると、人生は短く、いかに時間が貴重なものか痛感する。私たちは年をとるにつれ、次第に今この瞬間を大切に生きることができなくなっていく。

    15.子供たちに好きなことをさせてやればよかった。
    価値観や信念の違いでぶつかって、家族がバラバラにならないためにも、愛、思いやり、共感はとても大切だ。

    16.最後に言い争いなどしなければよかった。
    人生は短く、愛する人との最後の会話がいつになるかは誰にもわからない。その瞬間ことなど、人はたいてい考えていないものだから。

    17.自分の情熱に従えばよかった。
    安定した収入、つまらないけれど堅実な仕事、居心地のいい人生はなかなか捨て難い。でも、夢や生きがいを捨ててまで固執すべきことではないことに、死ぬ直前まで気が付かないものだ。

    18. 自分に正直に人と接すればよかった。
    もっとまわりを喜ばせれば人気者になれ、聞きわけがよければパートナーに誰かと駆け落ちされることもないと思いがちだ。年をとるにつれ世渡りがうまくなり、身の処し方がわかるようになるが、自分自身の幸せを犠牲にすることはない。

    19.あのとき、本音を言ってしまえばよかった。
      思い切って本音を言ってしまえば、後でほぞをかむ思いをすることはないだろうが、黙っていれば、後悔が一生心についてまわる。

    20.なにかひとつでも目標を達成すればよかった。
    オスカーをとる必要も、起業する必要も、マラソンを完走する必要もないが、どんな小さなことでもいい。目標をたて、それを達成することは重要だ。

                         ・・・・・・・・・・
    要するに,後悔ですから,こうしておけばよかったという,特に,自分の思う丈に生きておけばよかった,ということになるのですが,周辺の人びとや(同輩) や,これから生まれてくる人びとを配慮せざるを得ないというのが,我々の普通の生き様であって,そう思うとおりにできないのが浮世です。また,こういった 配慮が,倫理とか,特に世代間倫理とか言われるものなのです。でも,できる範囲で,精一杯,後悔しないように生きたいものだと,今にして後悔もしていま す。当方老人として時に考えるのは,やらなかったことに対して「後悔」,やってしまったことについて「言い訳」ですが,万事あんまり深刻には考えないとい うのも,これまでの人生で獲得した智慧でもあります。

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    #19

    荻原 欒 (土曜日, 28 12月 2013 23:34)


    昨年の今頃ですが,「第12回シルバー川柳」入選作を,これも知人から,ネットで知らせてもらって,読んでたいへん愉快でした。シルバー川柳とは,「公益 法人全国有料老人ホーム協会」主催で,毎年募集し,入選作を選定しているものです。臨終に当たっての後悔もよいですが,口直しに,こちらの今年の入選作を 紹介しておきます。川柳は面白い。私は,今,朝日新聞をとっていますが,まず読むのが,西木空人選「朝日川柳」です。今日の第一句は「この次も死んでくれ よと奉る」でした。以下,他人の褌ですが,どうぞ。

                   ・・・・・・・・・・
    「第13回シルバー川柳」入選発表
     第13回目となります「シルバー川柳」に、今年は13,872作品の応募をいただきました。各会員ホームの入居者約980名の投票をいただき、下記の20作品を入選作として選出しました。

    ■お医者様パソコン見ずにオレを診て
      佐藤 光紀(男/秋田県/74歳/農業)
    ■寝て練った良い句だったが朝忘れ
      久保 静雄(男/埼玉県/73歳/無職)
    ■「先寝るぞ」「安らかにね」と返す妻
      朝倉 道子(女/埼玉県/71歳/主婦)
    ■欲しかった自由と時間持て余す
      藤原 ノブ(女/岩手県/77歳/無職)
    ■お迎えは何時でも良いが今日は嫌
      千   両(ペンネーム)(女/神奈川県/84歳/無職)
    ■お迎へと言うなよケアの送迎車
      安永 富男(男/福岡県/84歳/無職)
    ■金貯めて使う頃には寝たっきり
      湯澤 力男(男/福島県/69歳/無職)
    ■欲しい物今じゃ優しさだけになり
      宮沢 淑子(女/大分県/74歳/主婦)
    ■骨が減り知人も減るが口減らず
      上川 康介(男/広島県/53歳/公務員)
    ■症状を言えば言う程薬増え
      須藤 貞子(女/奈良県/85歳/無職)
    ■孫が聞く膝が笑うとどんな声?
      飯田 芳子(女/埼玉県/59歳/無職)
    ■本性が出ると言うからボケられぬ
      阿部  浩(男/神奈川県/53歳/会社員)
    ■メイドカフェ?冥土もカフェがあるんかえ?
      竹村 友子(女/三重県/36歳/パート)
    ■ひ孫の名読めない書けない聞きとれない
      松本 俊彦(男/京都府/48歳/会社員)
    ■耳遠くオレオレ詐欺も困り果て
      岩間 康之(男/兵庫県/60歳/公務員)
    ■子は巣立ち夫は旅立ち今青春
      蓮見  博(男/栃木県/61歳/無職)
    ■検査あと妻のやさしさ気にかかり
      細野  理(男/岐阜県/63歳/自営業)
    ■白内障術後びっくりシミとシワ
      村川 清嗣(男/大阪府/71歳/無職)
    ■期限切れ犬にやらずにオレに出す
      足立 忠弘(男/東京都/74歳/無職)
    ■暑いのでリモコン入れるとテレビつく
      佐々木郁子(女/宮城県/75歳/無職)

    「第12回シルバー川柳」入選発表
     第12回目となります「シルバー川柳」に、ことしは9,353作品の応募をいただきました。各ホームの入居者1,237名の投票をいただき、20作品を入選作として選出しました。

    ■日帰りで行ってみたいな天国に
      斎 千代子(71歳/女性/宮城県/無職)
    ■延命は不要と書いて医者通い
      賣市 髙光(70歳/男性/宮城県/無職)
    ■紙とペン探してる間に句を忘れ
      山本 隆荘(73歳/男性/千葉県/無職)
    ■三時間待って病名「加齢です」
      大原志津子(65歳/女性/新潟県/無職)
    ■目覚ましのベルはまだかと起きて待つ
      山田 宏昌(71歳/男性/神奈川県/経営コンサルタント)
    ■起きたけど寝るまでとくに用もなし
      吉村 明宏(73歳/男性/埼玉県/無職)
    ■年重ねもう喰べられぬ豆の数
      乗鞍 澄子(88歳/女性/兵庫県/無職)
    ■躓いて何もない道振り返り
      山田  徹(44歳/男性/群馬県/会社員)
    ■二世帯を建てたが息子に嫁が来ぬ
      滝上 正雄(64歳/男性/神奈川県/会社員)
    ■改札を通れずよく見りゃ診察券
      津田 博子(46歳/女性/千葉県/主婦)
    ■遺影用笑い過ぎだと却下され
      神谷  泉(50歳/女性/愛知県/パート)
    ■味のない煮ものも嫁のおもいやり
      海老原順子(57歳/女性/茨城県/主婦)
    ■年金の扶養に入れたい犬と猫
      藤木 久光(68歳/男性/福岡県/無職)
    ■ガガよりもハデだぞウチのレディーババ
      葵  春樹(ペンネーム)(31歳/男性/千葉県/無職)
    ■女子会と言って出掛けるデイケアー
      中原 政人(74歳/男性/千葉県/無職)
    ■LED使い切るまで無い寿命
      佐々木義雄(78歳/男性/京都府/無職)
    ■おじいちゃん冥土の土産はどこで買う?
      角森 玲子(44歳/女性/島根県/自営業)
    ■忘れ物口で唱えて取りに行き
      角 佐智恵(77歳/女性/福岡県/無職)
    ■指一本スマホとオレをつかう妻
      髙橋多美子(51歳/女性/北海道/パート)
    ■アイドルの還暦を見て老を知る
      二瓶 博美(54歳/男性/福島県/無職)題材

    「公益法人全国有料老人ホーム協会」のホーームページ,そして,ポプラ社から本も出ています。

     皆さま,良い年をお迎えください。

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