真の意味での責任と自由 ― 今日の日本社会の根本問題 ―

 

今年で敗戦後68年になります。それに関連して,今日の我々の社会のあり方について,いろいろな議論がなされます。最近話題の,ともに若い世代の論客の書いた,2つの本を読みました。

  白井 聡 『永続敗戦論』 太田出版 2013.3.

  適菜 収 『日本を救うC層の研究』 2013.7. 

(あるいは「週刊新潮 22号(815日号)」)

 

 前者は,時間軸にそって,つまり,歴史分析によって,後者は,平面軸にそって,現状分析によって,今日の日本の基本構造を示そうとするものですが,この2つに示されている論理を合わせることによって,そして,それに,私の解釈(後者については多少の改変)を若干加えて,かなりうまく,日本の現状を説明できるのではないかと思うのです。そのことについて以下述べてみます。

 

 『永続敗戦論』要旨は次の通りです。(ただし,私の解釈も入っています)

 

 1945年,大日本帝国は,連合軍に,敗れた。それは総力戦において敗れたのであるという(総力戦とは,対等な国同士の戦いではなく,正義の国からする,道徳的に犯罪者とされた国への正義の戦いである)。こういった場合,この戦いは,道徳的な,あるいは,原理的な戦だから,敗れた側は,主権も,国体もすべて失い,過去を清算して,無に帰するわけである。しかし,45年敗戦後,日本は,現実としては負けた状況にあったけれど(本当は負けたのだけれど),そのようには進んでこなかった(そうしなかった)。国体は護持され,その後の経済的発展により,アジア諸国への優位は,戦前と違った形ではあるが,維持され,民主主義という近代化もなされ,むしろ旧道徳に縛られた戦前よりも,快適な生活が成立したのだった。

 

 無に帰すことなく,過去を清算しないで,そういうことが可能であるについては,そこにトリックがあったのである。つまり,敗戦後すぐに,日本は,連合国の(現実としてはアメリカの)従属下に入り,アメリカの言うことをきくことによって,アメリカの傘下に入ることによって,すなわち,アメリカの一部分になることによって,アメリカと同等の立場,(戦勝国とは言わないまでも)少なくとも敗戦国ではないという立場をとり得たのである。

 

言いなおせば,敗戦国になることによって(アメリカの部分になることによって)戦勝国になる(アメリカの一部になる,少なくとも敗戦国にはならない)という,パラドックスが,日本には成立したのである。敗戦という状態を,敗戦処理により終了させないでいる限りでは,日本は敗戦国ではない。敗戦処理とは,戦争の責任を自覚し,国を無化し,指導者層は永遠に引くという過程である。そして,もし運がよければ,苦難と努力の末に,全く新しい原理で,社会を再興することになる。敗戦のままの状態にとどまり,敗戦を終了にさせない,こういう状況にあることを,著者は,「永続敗戦」という。アメリカの部分となることによって,アメリカと同等になる,という構造である。

 

戦後,日本は,保守(指導層)も,そして,革新(反体制派)も,ともに,このトリックを受け入れ,そういう道を選んできた。

 

本来なら,敗戦の後には,敗戦の始末が続き,国は無に帰すのである。日本国は,敗戦はしたが,アメリカの懐に入ることによって,敗戦の始末をしてこなかった(つまり,内外に向けて,戦争責任を誰も取らないまま,国は存続し続けた)。敗戦の始末をして,無に帰して,違う原理で出直すべきところを,敗戦状態を清算しない方が,都合がよかったから(実際に,民主主義,自由主義を手に入れ,経済的繁栄を得,表面的には栄えてきた),敗戦の決着をつけることなく(戦争を終了にすることなく,そのままアメリカに従属することによって),今日まで68年たった。が,その矛盾する状態は,さすがに,今日,維持できなくなってきた。国内的には,成長経済体制の破綻,3.11問題,・・・,国際的には,アメリカの相対的弱化,中国,韓国の発展などの事態の成立がその理由である。

 

 これまで,保守政権は,敗戦状態を永続的に維持すること(つまり,対米従属)を,基本方針としてやってきた。それは,敗戦処理をすることによって,いわば国体が変えられることを恐れたからでもあり,経済成長を優先するためでもあり,根本問題を論じないというメンタリティにもよってでもあった。だから,戦争責任の議論を避け,反米勢力に対して厳しく当たることになる。しかも,それは保守政治家だけではなく,今日日本人全体にわたる,一般的意識になった。(特に,保守内部における反米は,芽のうちにつぶされる,鳩山由紀夫失脚などはその証左である)。しかしながら,永続敗戦の論理はもはやもたなくなった。

 

 以上を,分かりやすく下世話に言えばこうである(この書の著者がそういっているわけではない,荻原の解釈である)。ある地方の町にNという集団があって羽振りを利かせていた。その隣接の町には,CとかKという対抗集団があったが,そちらは,当時弱体だったので,Nは,それらを脅して,傘下に入れ,縄張りを広げようとして,傍若無人にふるまった。こういったNの横暴さを危惧したのが,もっと広域を支配する大きな集団Aであり,Aは,ある時,力によって, Nをつぶしにかかり,Nは総合的には力がなかったので,結局負けた。その時Nは自分の集団(の種)がなくなるのを恐れ,何とか維持しようとして,今後は戦わないこと(丸腰になること),Aには逆らわないことを誓って,Aの傘下に入った。それによって,NにはAという後ろ盾ができ,Nは,もとの町と周辺に集団を維持し,生業も順調で, CとかKに対しては,以前と同様,(昔とは違った形で)優位さを保ち,それなりに集団は大きくなった。ところがここにきて,後ろ盾であるAの力に陰りが生じ,CKが力をつけてきて,実力でNを超える勢いになってきた。けんかに負けた後,Nは,Aに従属することによって集団を維持してきたのだが,この原理は,ここにきて,行き詰り,このままではやっていけないという現状である,今後どうするのか。

 

 もう一つ,この著から面白い議論を紹介しておきます。

 それは,政治体制について,顕教的部分と,密教的部分という区別です。

 

 戦前の日本の体制は,天皇中心の国体の護持であった。頂点は天皇にある。それは大日本帝国憲法にある通りで,これは体制に対する,顕教としての,解釈,説明である。ところが明治の元勲たちは,実際には,天皇親政を表向きにしながら,実権を持たせず,立憲君主制国家として,国を運営してきた。これが密教的部分であり,「天皇機関説」はその解明である。同様に,戦後の日本において,民主国家,不戦,経済主義は顕教的部分である。ところが,現実の政治の運営は,アメリカ従属(永続敗戦-敗戦のままでいる,敗戦処理をしない)で行われてきた。これは密教的部分である,と言う。

 

『日本を救うC層の研究』の要旨は次の通りです。

 

 2004年自民党は,郵政民営化を実現すべく,ある広告会社に「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略」という企画書を作らせたそうだ。その企画書では,国民を,2つの座標軸の組み合わせによって,A層,B層,C層,D層の4つのグループに分類して分析しようとする。

 

4つのグループとは,中学数学で習った,2つの座標軸によって,平面を4つの象限に分ける,あれをイメージすればよい。つまり,直行するXY2つの軸によって,平面は4つに分けられる。その,右上の部分をA,右下をB,左上をC,左下をDとするのである。座標軸の目盛は,Y軸は上に向かって,IQの高さを示しているとする。IQとは喩で,内容的には,与えられたことがらを,目的に応じて迅速に処理する有能さ,合理的処理,科学的処理における有能さと言ってもよい。学力的にはいわゆる巷でいう偏差値でもよい。横軸,X軸の目盛は,もともとの企画書が,小泉郵政改革のものであったから,狭くは郵政改革への支持度,もっと広くは,郵政改革の裏にある,改革,革新,革命への志向,グローバリズム,普遍主義(国家体制や道徳原理についての)など,根本的には,近代主義,経済成長主義の流れに沿った,今日の多数派の主張への支持の度合いである。その度合いは右に向かって強くなるとする。

 

 それぞれの層の特性を,具体的に言えば,

A層は,結局は,今日の多数派のとる,近代主義,経済成長主義の原理に立ち,それにそった現実的テーマを,主導して提示し,その実現に向かって,合理的に考え,行動する能力をもつ指導層である。時の多数派の主張に深くコミットし,それを実現すべく主導する勢力である。現実的に言えば,財界の勝ち組企業,大学教授,マスメディア(TV),都市部ホワイトカラーがその代表であるという。

 

B層は,大衆的層であり,A層の提示したテーマを,素早く,しかし,無批判,無自覚に取り入れて積極的に担ぐ。著者に言わせれば,「権威を嫌う一方で権威に弱い,テレビや大学教授の言葉を鵜呑みにし,踊らされ,だまされたと憤慨し,その後も永遠に騙され続ける層」となる。ただし,B層は一概に無教養とはいえず,また,B層とは低学歴というわけではない。彼らは,新聞を丁寧に読み,テレビのニュースを熱心に見る,そして,そのことによって,自分たちは理性的,合理的に判断していると思い込む。ただ問題は,彼らが選んだ結論,そして,それを根拠づける論理が,自らが考えたものではないこと,つまり,結論もそこへの筋立ても,その場の勢いで,無批判に,多く感情的に受け入れたものであることである。しかし,いったん受け入れると,排他的に支持し,ファナティックに行動する。結局,A層に踊らされることになる層である。具体的には,主婦層,若年層,シルバー層に多く見られる。

 

それに対してC層は,合理的,理性的能力は高いが,A層,B層のように,近代主義,成長主義,それによる時流のテーマにコミットすることはなく,批判的である。この場合で言えば,改革,普遍主義,グローバリズムには,否定的な層である。C層は,A層,B層が信奉する,彼らにとっては当然と言える主張に対して,原理的な観点から批判を加えようとする。それ故,現実には,少数派である。D層については,主題的には取り上げていない。

 

著者は,この分類を受け入れ,その中でのB層の役割に注目して,否定的に取り上げ,いくつかの著作と週刊誌などに記事を書いてきた。その論に従えば,具体的には,当時の小泉選挙を勝利させたのは(あるいは,著者に言わせれば,日本をダメにする危険があるのは),この,軽薄に騒ぐB層である。そして,A層の,近代主義的志向と経済成長主義,それに無批判に乗ったB層の大衆性,被扇動性(著者は愚民と言う),これが今日の日本社会に停滞をもたらし,混乱をもたらす要因であると述べる。こういう状況に対抗すべく,それらに批判的な,根本的には,反近代主義的で,反成長主義的で,(真の意味で)保守的な,そして高い知的な能力と教養を持つC層に期待する,という。

 

以上は,2つの著書の要旨のいささか恣意的な紹介で,以下は,私の見解です。

 

まず,「永続敗戦論」の主旨は,私の読み込みも含めて言えば,こうなります。日本は太平洋戦争において敗れました。しかしながら今日まで,こちらから敗戦処理をしてきませんでした。敗戦処理がなされて,決着がつけられていないから,敗戦時から,今日まで,ずっと敗戦状態にあると言えるわけです(永続敗戦)。敗戦処理とは,敗戦の後始末をつけることで,国を無化し,それまでの指導者は第一線から永遠に引くことです(これはもちろん,一人残らず自決してしまうというようなことではなく,意味的にということです)。これが,戦勝国側からでなく,こちらから,戦争責任をとるということです。ところが,今次の敗戦では,国は無化されず,そのことと連動しますが,指導層のトップである,天皇陛下は,戦後もそのまま天皇陛下でした(国体は護持された)。これが,敗戦処理がなされずに経緯したということを,最も象徴する事柄と言えます。それが意図的であったか,成り行きであったかには議論があるでしょう。また,このことは,昭和天皇個人の問題ではありません。(ややもすると,わが国では,誰か人物について,その責任問題を論じると,その人物を含んだそのことがら自体ではなく,その人物が,誠実であったとか,常に国民のために働いたとか,自己犠牲的であったとか,貧しく苦労をしてその地位についたとか,そういう個人的資質に話を持って行って,感情論に持ち込み,そこで話は終わり,ある場合は,それ以上進めるのはタブーになります,それ故,ことがいつまでも最後まで進まないのです。ここではそういうことを言おうとするのではありません)。敗戦処理が行われなかったということは,こちら側からの戦争責任がとられていないということです。(A級戦犯の処罰は,こちら側の問題ではなく,相手方のことがらで,B,C級戦犯は,これは責任の問題ではなく,戦争の犠牲者です)。

 

要するに,今次大戦で,我々は,負けたのに,敗戦処理をしてこなかった。ことがらの後始末をしないで,ただ経緯にまかせること,これを無責任と言います。犬の糞をそのままにして散歩を続けるなどもそれです。永続敗戦とは,言い換えれば,敗戦時に,日本は責任を示してこなかった(敗戦処理をしなかった),無責任に今日まできた,ということです。この無責任は,アメリカへの従属という形で,戦後の日本にとっては,都合のよいことだったのですが,さすがに,今になって,国際状況の変化とともに,ほころびが生じてきました。またそのことの負の影響が出てきました。

 

しかし,それもさることながら,私はこの無責任体制に由来する,もう一つの,日本社会の,倫理的破たんを言いたいのです。それは,それ以後,日本人全部が,日本全体が,無責任を容認するようになってしまったことです。責任をとるというようなことが,本質的意味では,行われなくなってしまいました。責任をとるとは,ことがらを起こした組織を無化し,指導者は一線を永久に退くことです。例えば,今日,ある団体なり,企業が,何か不祥事を起こす,その責任の取り方は,幹部が並んで頭を下げて謝る,(これはいわば敗戦です)。でもことはそこまでで,その後は,その団体も,その幹部も,そのまま残存し,しばらくして,ほとぼりが冷めた以後,その団体,企業,担当責任者は復活し,再び繁栄する。永続敗戦と同じ構造です。責任とは,その団体はなくなり,幹部はいなくなることでなければなりません

 

どうしてこういう無責任さが一般化したのか。それは,今次の敗戦において,敗戦処理がなされなかった,戦争責任がとられなかったことに由来します。一旦そのことを見せられた上は,敗戦という国家の大事においてそうならば,巷の些事においておやということになります。これは日本人社会について,倫理的な大きな損失です。責任を意識することなく,ことがらを行える,やって失敗しても,責任は問われず,過去は捨ててリセットできる,となれば,ことがらは軽くなります。ことがらに歴史の重みが欠けてしまうのです。歴史は,無味乾燥な時の流れではなく,消えることのない悔恨とともに,責任をとることにおいて意識されるものです。

 

今日の日本の無責任体質の出発点は,敗戦時にあり,68年の積み重ねの上に,定着してきたものです。もっとわかりやすく言えば,今次戦争で負けても,天皇制も天皇陛下も存続し続けてきたのだから,(無責任),一番上がそうならば,我々,下端の行動も,その構造に従ってよいだろうということです。それ以後,天皇陛下が,国民にとって,(無意識的にではありますが)無責任の象徴になってしまった(あるいは,怖れ多くも,そうしてしまった)わけです。もとより,ここで,昭和天皇個人をどうこう言っているのではありません。

 

今日の日本人の責任論については,もう一つ別な視点から,言うことがあります。確かに,上に述べたように,戦後,我々は,責任意識において希薄になってきました。しかしながら,それは,自分が責任をとることにおいて,極めて希薄になったのであって,その反面,他人の取るべき責任については,逆にシビヤーだという現実があります。他人のミスについては,どんな些細なことでも責任をとるように追求する。どうでもよいようなことにまで,責任と言われる。そういう事態はあちこちで認められます。でも,間違いとかミスは人間である以上,社会生活上,しばしばあることで,これは責任の対象ではないのです。そこまでやられると,委縮してしまって何もできない。責任は,意図してやられたこと,自覚してやられたことに対して,生じるというか,そこに前提として事前にあるものです。そして,それは,他者からいわれるよりも,自己の内から生じる倫理感なのです。根本に対して甘く,枝葉に対して厳しく,その辺が,逆になっている。

 

どうして,このように,責任の追及が,自己については,甘く,他者に対しては厳しくなったのでしょうか。精神分析的言い方をすれば,自己責任を取らないことに対するコンプレックスが,他者の責任に対する厳しさに出てくる,これも間違いではないかもしれません。自己については寛容なくせに,他者に対しては寛容でなくなったというような,個人主義,利己主義に由来するものもあるかも知れません。それに合わせて,こういうこともあるのではないでしょうか。つまり,日本人は(戦後政治において主流であった保守層は),永続敗戦状態を維持することによって,民主主義と,経済的繁栄を得たが,ことがらにおける責任意識を失っていった。一方,保守支配の対抗勢力としての革新陣営も,最初はともかく,結局は,敗戦の後始末をせずに(これは結構リスクを伴う作業ですから),敗戦状態に止まることによって(結局,アメリカを排除できなかったことによって),結果的には,民主主義と新憲法を安直に得ることができました。そこから,民主主義と新憲法を重視せざるを得ないことに基づく,過度の権利意識と,それを妨げるものに対する,これも行き過ぎた他罰主義(責任追及)が生じたのです(民主主義と新憲法を,孫をかわいがるように大事にし過ぎた,孫がちょっと怪我でもしようものなら,大騒ぎになるのです)。本当に敗戦処理がなされていたら,国は無化され,経済発展も,民主主義も,新憲法も,諸権利も,このように簡単には手に入らなかったかも知れません。安直に手にするために敗戦処理をして来なかった。ですから,(一方での無責任の横行とともに,)過度の権利意識と他罰主義(責任追及)は,永続敗戦状態の確認でもあるのです。意識下の構造はそういうことではないでしょうか。このことは我々にとって,メリットもありましたが,ここにきて,弊害も生じているということです。

 

つまり,今日の社会の問題の一番は,行為において責任を意識しなくなったこと(行為に芯がなくなった),無責任社会の成立です(植木等のいうそれより重篤です)。その淵源は敗戦処理をしないで来てしまったこと(永続敗戦状態)にあります。そのことのつけが,現今の社会の劣化として(特に倫理的劣化として)現れているということです。

これを立て直すには,敗戦時まで戻って,再出発しなければならないのかもしれません。

 

次に,適菜氏の4層分類の議論については,横軸の内容をちょっと変えて,私流に4つの層を改変して議論してみたいのです。

Y軸をIQの程度によって目盛ることについては適切と思います。目的が与えられた時,その目的を効率よく,達成すべく,働く能力です。論理的能力,合理的処理能力,数理的能力,情報の量,情報を集める能力,記憶力,そして,集中力なども,ここに入るでしょう。目的に合わせて,情報を収集し,材料を集め,有効に処理する,そういう能力です。こういった能力の高い人が,受験などでは有能ですから,学力偏差値などはこの軸のものでしょう。世に,頭がよいという,その序列を表す軸です。

 

ただ,人間の頭の良さには,もう一つの指標があるように思うのです。IQ,・・・は,目的が定まった後の対応能力です。それに対して,その前に,どのような目的を設定するか,どの目的を選ぶか,というのも,知能,広く,智慧に関係します。目的はいろいろにあり得ます。また,いろいろに設定できます。そこに働く智慧です。また,もう一つ,対象世界を,どういう見方のもとに見るか,どういう思考の枠組みのもとにとらえるか,ということもあります。どういう立場に立つかによって,世界のあり方も,生活の仕方も,違ってくるのです。見方,枠組みもいろいろ有り得て,いろいろに設定できます。その際の能力,智慧です。IQ,・・・は,あくまでも,目的が定まったうえでの,特定の見方が設定されたうえでの,効率性実現の能力です。一方,目的の設定も,枠組みの設定も,生きることにおいて,我々が意識しなければならない,大切なことがらです。それは,IQ,・・・とは区別された,総合的な能力であり,おそらく,無から形を作り出す想像力(イマジネーション),その底にあるさらに高い目的に導かれた道筋とでもいうべきもの(志)に関連するでしょう。こういった能力,あるいは,センスと言ったらよいのかもしれませんが,その度合を,新たに横軸に取り,縦軸と組み合わせてみようというのです。横軸を何と名づけたらよいか,智慧,想像力,志,倫理性,そういったものの度合いです。

 

しかし,これでもあいまいですから,もう少し具体的に言うと,我々が生きているについて,決まった枠にがんじがらめにとらわれて生きている人がいます。それしかない,それが真理だと思って,その枠内で,行動する人々です。枠が決められた上では,IQ的能力が,有効に(迷いなく,早く),発揮されます。これが,世間的には,頭のよい人となります。受験勉強に成功した人,あるいは,優秀な官僚などは,少なくとも,このタイプでしょう。成果は確実だし,頭の回転は速い,目的や,枠組みが,最初から決まっていれば,その点での躊躇がないから,こうなります。

 

しかしながら,人間の生活は,何を目的に生きるかによって違ってきますし,どんな枠組みを受け入れて世界を捉えるかによっても,違ってきます。そして,人間の,能力,智慧は,その点においても,大いに働きます。そこで,その点に着目して,目的や枠を固定して考える人々を右に,目的や枠の選択に自由度があるとする人々を左にして,横軸を考えます。右によるほど固定的で,自由度が少ない,左に行くほど,自由度が高く,創造的である,こう振ります。もっと,突っ込んでいえば,この世界は,本来,不分明で,混沌としてあり,その不分明や混沌の中に,我々は,生きる目的や,それを認識する枠組みを,作り上げて,あるいは,選択して生きていくのだと考える人(そういった考え方のもとに,根源的には,自由と言うものは成立します)は左,世界は固定的で,真理は動かしがたく,それは絶対だと考える人は右,ということになります。

 

言いなおせば,A層,B層の人は,世界は一つ,真実は一つと考え,その世界や,真実の内容を,何らかの方法で手に入れている,あるいは,手に入れることができるとしているわけです。何らかの方法とは,一般的には,合理性によってであったり,科学であったり,常識であったり,場合によっては,何の根拠もなく信じ込まされて(洗脳,教育)であってもかまいません。とにかく,そこでは,世界は固定されたものとして捉えられます。これに対して,軸の左側の住人,C層,D層の人たちは,世界は本来,不分明であり,混沌であり,根拠とか最終的よりどころはどこにも存在せず,その不分明,混沌の世界を,我々は,自由に,書き割って(分節化すると言います)生きていくのだ,そうして見えてきたものがこの現実の世界である,とします。そのようにして成立した世界は,我々が分節化したものですから,もとからある,固定化されたものとしての,真理ではなく,真理に対して,身分としては仮設と呼ばれるようなものになります。彼らにとっては,世界は仮設なのです。ですから,近代主義や,グローバリズムや,普遍主義,成長主義(改革,革新)というようなものが言われても,それらを唯一の真実,唯一の世界のあり方,真理であるとはせずに,書割(分節)の仕方の一つであり,仮設である,もとは混沌,不分明だとしますから, A層,B層のように,それに強くコミットしないし,それに対しては,批判的になるわけです。以上に従って,横軸は,左方向により自由,右方向に固定的ということにします。

 

 確かに,現実に世の中を牛耳っているのは,A層,B層です。それが多数派です。我々の多くもそこにいます。そこには,全員がそうと思い込んでいる一つの世界があるだけで,人々のすべきことは,その世界の中で,それに合わせて効率よく生きることです。(ですから,CDは異端で,通常はあり得ないことで,間違いとしてあるだけで,だから,横軸は不要で,軸は効率性を追求する,狭義の頭の良さを示す,縦軸だけでよいとなります。)

 

 しかしながら,そのA,Bの世界にも,これは私たちが現実に生活している世界ですから,承知のように,様々な問題が生じます。そしてその問題の一部は,その世界の中の原理で,その世界の内部で,解き得る種類の問題です。日々直面する,生活上の多くの問題は,そういった種類のものです。しかし,問題の中には,なぜ近代主義なのか,なぜグローバリズムでなければならないのかというような,原理に触れる問題もあります。こういった問題は,その世界の中で解こうとすると,出発点である前提に当たりますから,理詰めだけで,客観的には解けないで,最後は,お前は,疑うのか,裏切るのか,信念が足りないというような,水掛け論になって,その結果の最悪の場合が,戦争であったり,倫理的,宗教的な根深い対立であったりします。

 

 こういった後者のような状態から抜け出るには,その世界を外から見ることが必要で,そのための横軸の導入です。世界のあり方は,いろいろである,要は,選択の問題,創造性の問題であって,唯一の真実と言うものがあって,それをめぐる喧嘩の問題ではないとして,CD層の立場に立つことです。ここでは,唯一の真理という考え方は否定されていますから,世界のあり方は,複数であって,どれが正しいかではなくて,相互に独立,対等ですから,したがって,喧嘩にはなりません。もし双方ぶつかったら,暫定的にどれかを選ぶまでです。政治的場面でいえば,それが,議会主義ということで,ことは喧嘩ではありませんから,材料は隠さずにすべて出して,双方の理屈の構成も,手の内すべて示して,最後は全員で暫定的に決めればよいのです。AB層でも議会主義はありますが,そこでの議会は喧嘩の手段ですから,材料は隠すし,手の内は明らかにしない,騙しあうことによって(これを議論と言います),最後はB層を動員して,多数派工作をするのです。

 

 適菜氏は,私とは,横軸の意味づけが違いますから,C層,D層と言っても同じものを指しているとはいえませんが,彼は自分の言うC層を,上質の保守勢力として,評価しています。私はC層よりも,D層に注目します。D層とは,横軸の左側ですから,D層にとって,世界は,不分明で,混沌,世界はあるがその中身は分からないとなります。裏からいえば,A層,B層の特性である,真理は一つであるという(否定的に言えば,独りよがりの,洗脳された,ヤンキーふうの,肯定的に言えば,科学,真理を根拠とするとされる)囚われから抜け出て,自由の世界に生きているということです。ただ,D層の人間は,縦軸の下方ですから,頭が悪い(気が利かない,効率的でない,ぼんやりしている)。志は秘めているが,ぼんやりしている,そういう層です。AB層からは,バカにされ,差別されるような層です。喩えて言えば,あの「寒山拾得」のような,賢治の「みんなにデクノボーと呼ばれ,褒められもせず,苦にもされず」のような,イワンのバカの国の住人のような(イワンの国では,手に豆のない人は,つまり身体で働かない人は夕食にありつけません),もっと高級ふうに言えば,良寛のような,西行のような,あるいは,山下清のような,そういう人たちの世界です。

 

D層の世界の住人達は,自分の手に負える範囲で生活しているというのが特徴です。責任の負える範囲で生きているということです。そして,これしかないという思い込みはもちません。ですから,すべてから自由です。責任と自由,A,Bの世界では絶滅に向かいつつある概念ですが, Dの世界ではこの二つは根本的意味において,成就されます。世界の人々が,皆,D層になって,D層人間として生活するようになれば,よいのです。

 

今日の社会は,つまり,AB層ですが,根本にこの問題を抱えていて,行き詰まっている,と言うのが,紹介した二つの著書の(私がいささか深読みした)論点だったと思います。その解決には,横軸を導入して,左側に渡ること,縦軸の上部を絶対視しないで,下部を尊重すること,つまり,AからDへの,いわばパラダイム変換が,必要なのです。

 

 昨日は,2020年のオリンピックの東京開催が決まりました。これは,典型的な,A,B世界の話題です。案の定,決定を受けて,A層はにんまりし,B層の一部は,早朝から,新宿,渋谷に結集して,はしゃぎました。メディアのバックアップも始まりました。開催にこぎつけるまで, A層は,A層の特性として,有能に,周到に準備してきました(様々な手口を使いました)。これはA層の得意とするところです。これからは,B層の取り込みが,マーケティング手法によって,始まります。A,Bの世界は,自転車の走行のように,最悪の場合は戦争も含めて,常に漕いでいないと(動いていないと)倒れる世界です。A,Bの世界の欠陥は,本質的に,今自分のしていることが何だということを知らず,あるいは,そのことに対する意識と,探求(反省)精神に欠けたまま,ただ,動いていることです。そのことから抜け出そうとするなら,パラダイムを変換しなければなりません。