前に,「貨幣,金融」,「市場,マーケッティング」について,いささか反抗的に書きました。
1)貨幣は,(実体である)物品やサービスの,交換の道具,手段として,つまり,(実体的)対象に対して二番目のものとして用いられているうちは正常だが,やがて,それを超えて,実体の裏付けのない,架空のものまで交換の対象(すなわち,商品)にし,そして,二番手だった貨幣的価値が,逆に,商品,サービスを支配するようになり,つじつまだけ合えばよいという,仮想の世界を作り出す。
2)市場が,実体に裏付けされた,現に存在する商品やサービスの交換の場所として,商品,サービスに対して,二番目のものとして成立しているうちはよいのだが,その関係が逆転,市場の方が先行し,それにつじつまを合わせて,商品,サービスが仮想され,そして,さらに,仮想が実体化されるようになる。
このように,貨幣も市場も,現実を,実体を反映している範囲にあればよいのですが,どうしても,自らの論理により,それを超えて,つじつまだけ成り立てばよいという,仮想の領域,非実体の世界を作ることに,突き進んでしまうのです。そして,さらに,本来仮想だったものを実体化してしまうわけです。そこに我々の普通の生活(なんといってもそれが実体の根拠なのです)と,実体を超えた仮想の領域の間の,不具合が生じます。
しかしそれでは,実体とは何でしょうか。一概には決まりません。むしろ,実体を何にするかは,その人の生き方を表明するものだといってよいでしょう。ここで議論している経済領域についっても,いわゆる複雑な金融商品まで実体とする立場もあり,ネット上に成立しているネット市場も実体とする人もいます。その際の必要条件は,つじつまが合うということでしょう。また,人によっては,つじつまが合わなくても,脅しや,詐欺による,物品の交換も,世の中に現実にある事柄として,実体だとするかもしれません。私のここでの立場は,実体概念を狭く捉え,具体的な日々の人間生活に強くつながり,それぞれが実感を持って感じられるような事柄,あるいは,それに基づくような事柄を実体とよび,貨幣も市場も,そういった実体に関わる範囲のものでなければならないというものです(あるいは逆に,そういうふうに人間生活を定義するのです)。脅しや詐欺は,人間の普通の生活に本来的なものではありません。金融商品や,ネット市場は,確かに現実に存在しますが,複雑なお膳立てのうえにガラス細工のように成り立つ,作られたものです。はたして実体と言えるのかどうか,実態の強さ,確実さを持っているかどうか。
何が実体で,何が仮想かは,事前に,決まっているものではなく,区分けの,線引きの問題です。そして,どの線引きを受け入れるかによって,事柄のあり方,人々の生き方が決まるのです。わたしは,上に述べたように,現実の生活に基づいた,我々の実感に結びつく事柄を実体と呼び,人間も,社会も,その上に組み立てるのがよいと思うのです。
貨幣も市場も,生活上の便利な道具ですが,今日現実に生じている混乱,不具合をさけるためには,実体性の裏付けを超えない範囲で使うという,線引きが必要なのです。金で金を買うとか,売れることを根拠に必要のない商品,有害な商品を認めるという弊害は,その線引きの妥当性から生じます。人間生活のなかで,経済活動とは,物を作り,それを使う(消費する)ことの全体ですが,その過程に,今日は,貨幣と市場が(金融の論理,マーケティング思考が)深く関わり,本来道具であった貨幣と市場が逆に主役になってしまっている,言いなおせば,生活という実体が,拡張された,貨幣,市場という仮想にのみ込まれてしまっている,ここに,生活と経済の不具合が成立するわけです。
そういった生じたこの世界の不具合に対面して,大きく,3つの立場があり得ます。
第一は,不具合の存在を全く認めずに,金融と市場主義を,際限なく推し進めようという自由主義。
第二は,不具合に気づき,不具合に対処しようという立場。これに,二つあります。一つは,規制によって不具合を直そうという立場。何らかのやり方で金融と市場の働きに制限を設け,そこを超えさせないようにする,究極的には,国家権力による規制になりますが,罰則を伴って,現実的な手法といえます。
もう一つは,貨幣の機能や,市場のあり方に,倫理を導入するものです。倫理の導入とは,人間の本性に基づいて,あるいは,社会の秩序維持を必然とすることによって,線引きを超えないように期待するという立場です。これについては,昨今,企業倫理などいわれますが,しかし実際にはなかなか難しい。倫理はまさに,Sanction(制裁,処罰)の外にその根拠を求めるものですが,Sanction伴わないと,現実生活では,ことがらの統制は難しいのです。
要するに,不具合,混乱を改める方法が,貨幣と市場の機能を,物品(商品,サービス)交換のための道具の範囲に戻すこと(そうすれば,貨幣と市場がつくる仮想的な商品というようなものは成立しません)にあるとしたとき,そのために,規制による,倫理によるという二つの道が考えられるわけです。しかしながら,規制とか倫理によるやり方は,貨幣や,市場の存在を認めたうえで,つまり,経済の世界を認めて,その内部に線引きをし,線引きの内と外を区別し,外を捨てることです。経済を認めたうえで,その中で,不都合な部分をはぶこうとすることになります。一般に,このやり方は,問題を内部問題として処理しようとするやり方だと言われます。このやり方での解決は,この世界はこのままずっとあり続ける,ただその内部の,機能,構造を変えるということになります。これは,世界は実在する,ただし,その構造と解釈には,多少の変更はありうるという,基本的には実在論です。また,一般的には,多方面に関して,多くの人の考えるところです。
しかしながら, 第三の道があります。それは,現行の世界そのものを変えてしまう。経済,あるいは,経済活動というものに対して言えば,経済に対する見方,あるいは,経済というもの,経済観をそっくり変えてしまうことです。もっと,厳密に言えば,見方を変えれば,それ以前の見方のもとにあった世界はなくなってしまうわけですから,これは,現行の世界を否定することです。ある事柄に対して見方を変える(これを,パラダイムの変換と言います),それによって,それ以前の世界を否定する,あるいはもっと徹底的には,それによって,世界が変わる(世界を変える)ということです。
今日我々が経済と呼ぶ現象,活動は,歴史のある時点以後成立したものです。その成立以来,今日までの展開に対して,ある解釈を施して,整理したものが,今日,我々のもっている経済観です。これは,絶対ではなく,一つの見方です。その,(それを通さなければものも見えてこないという),一種のフィルターなのです。この「見方+α」のことを,今日は,パラダイムと言うわけです。パラダイムという言い方で,一番大事なことは,パラダイムとは分かりやすくは,事柄に対する見方のことですが,それは同時に,事柄自体のあり方のことでもあり,パラダイムが変換されたことは,世界自体が変わることなのです。
第三の道とは,経済現象に対する,パラダイムを変換して,経済を捉えよう,それによって,これまでと違った新しい世界をそこに見ようということです。そもそも,私たちが今日経済として捉えられているものは,何を経済現象とするかを含めて,近代の見方,近代のパラダイムに基づいて成立しているある種の事柄に過ぎません。パラダイムを変換することで,近代の成立以来,経済と呼ばれてきた事柄をご破算にして,新しい世界に入ろうということです。分かりやすく,極端に言えば,それは経済から離脱し,これまでの経済活動を破棄するということです。(こういうやり方での革命なのです)。
破壊するといっても,通常の物の売り買い,交換価値を貨幣の形で保存するといった,実体を伴った通常の貨幣の役割,そして,そういう事柄の成り立つ場の設定(市場の設定)は,人間生活の便宜として,否定する必要はありません(その範囲では不具合は成立しませんから)。ですから,そういった部分は残しながら,非実体的な機能が否定されている,そういったものとして世界を捉えることにする,それはいわばパラダイム変換によってなされます。それが第三の道です。
要するに,今日求められているのは,経済の中の改革ではなく,経済自体のパラダイム変換(経済の破棄)が必要ということであります。
それについて,このところ読んだ本を3つ紹介しておきましょう。その方向性が分かります。
l セルジュ・ラテゥーシュ著,中野佳裕訳,『脱成長は世界を変えられるか』(作品社,2013)
要点は次の通りです。
「すべてのものを際限なく増大させることはよいことであり,また,可能だ」,という発展主義の思い込みが,一般の経済現象の理解にも,経済学にも,信仰の如くあり,それが経済については,経済成長優先主義(経済成長モデルと呼ぶ)を成立させてきました。このモデルに従って近代の経済は解釈されてきました。ラテゥーシュはそれを「成長信仰」とよびます。
経済成長優先主義のもたらした内容は,
このような成長主義の発展の結果として,環境が経済を支え切れなくなり,カタストロフ(人類の滅亡)が,遅かれ早かれ,到来します。ローマクラブの3回にわたる報告書(第1回は『成長の限界』,1972)によれば,
これに対して, 持続可能な発展ということがよく言われます。
「経済的に効率的で,生態学的に持続可能で,社会的に公平で,民主主義に基づき,地政学的に容認可能で,文化的に多様な」,いわゆる,「持続可能な発展」という概念です。しかし,これは,ラテューシュによれば,経済成長モデルの内部の話であり,発展理論の「手直し」に過ぎないことになります。たとえて言えば,これは,社会メカニズムの変革でなく,傷口の包帯を変えるだけだというのです。我々の言い方でいえば,内部問題としてということになります。
問題は,手直しではなく,経済自体からの脱出です。経済から抜け出す。すなわち,すべてのものを際限なく増大させることはよいことだというという成長信仰からの脱出(パラダイムの変換)がラテゥーシュの主張になります。
その具体的内容は,以下のように示されますが,これはいわば反経済と言ってよいかもしれません。成長を信じるという生き方(生活),すなわち,経済生活を変えることなのです。
その上で,本書には,いくつかのそういった社会の実例が分析されて示されます。
l 広井良典著,『創造的福祉社会―成長後の社会構想と人間・地域・価値』 (ちくま新書 2011)
著者は,人類の誕生来,20万年にわたる人類史を俯瞰した時,そこには生産規模の増大,人口増に示される3つの成長の時期があり,それぞれの成長期の後に,今度は生産規模や人口増が横ばいになる,定常状態の時期が続くと言います。定常期とは,成長期の物質的生産の量的拡大に対して,質的文化的発展への内容の定着期であり,いわば文化創造の時代と言えます。しかも,それぞれの定常期の始まりの時期に,新しい文化的価値が一気に形成されます。
発展期,定常期の内容は,次の3つです。
心のビッグバン(文化のビッグバン,意識のビッグバン)とは,人類に意識というものが成立した(もっと詳しくは,反省的意識,意識に対する意識の成立である)。その具体的現われが,今から5万年前の,突然現れた加工された装飾品,絵画,彫刻のような芸術品などの成立である。
枢軸時代(ヤスパースの呼称),精神革命(伊藤俊太郎の呼称)とは,紀元前5世紀前後に,仏教,ギリシャの哲学,儒教,老荘思想,ユダヤ宗教が,相次いで,離れた地域で成立したことである。それらは,みな,個々の人間を超えて,普遍的な原理を志向するものである。
まさに,現代は,産業化による成長が頭打ちになり,第三の定常期が始まろうとしているところである。そこに,どのような,新しい文化,原理が成立するかは,まさに今日の問題である。
こういった俯瞰の上で,著者は,限りない生産力の拡大,経済成長の追求という第三番目の時代の後に,実現されるべき社会のありようとして,「創造的福祉社会」「創造的定常経済システム」と呼ぶものを提唱します。創造と福祉,創造と定常経済は,あるいは矛盾するように思われるかもしれませんが,ここで,著者が創造性というのは,「人々の創造性が真に開花し実現されていく社会(福祉社会,定常社会)」という意味での創造性ということになります。
著者はこの本で,社会システム,特に社会保障の在り方については,具体的な議論を展開していますが,私が捉えた範囲での,著者が目指す社会について,大きな流れを,箇条書きに取り上げておきましょう。
l 内山節著,『共同体の基礎理論―自然と人間の基層から』(農文協2010)
18世紀以後,ヨーロッパは,封建領主システム,宗教支配システムを改革し,近代化という方向に向かった。日本の場合は,遅れて,明治維新以後,その流れに乗り込むことになる。
その近代化とは何であるのか。次の3つが内容である。
この近代主義を進めていくことが,人類にとっての正解(真理)であるというのが,一般の流れである。それから400年たった今日でも(さすがに,様々な不具合が出てきて,その調整はなされるが),その流れはかわらないのではないか。国家正義,個人主義,経済的な拡大主義,成長主義,これらの確認,確定が,追求のテーマになり,そのことの実現が,人間にとって,真理であるということになる。これは,今日に至っても,人々のいだく共通幻想である。
そして,歴史上,こういった近代化の発展を妨げてきたのが,社会的には共同体の存在であり,共同体に基づく思考であった,とよく言われる。そこでは,共同体は,前近代の置き土産であり,克服されるべきものなのである(そのように,近代化論では言われてきた)。近代国家の成立も,市民革命も,産業革命も,成功したとすれば,共同体の解体,共同体的思考の清算が前提となる。旧来,共同体に対する論はそのように,近代主義を妨げるもの,反近代主義としてなされてきた(たとえば,あえて,本書と同じタイトルであるが,大塚久雄『共同体の基礎理論』)
日本において,明治以降,共同体否定の論の代表は次の3つであった。
これらはすべて,近代主義という,共同幻想の枠内での議論である。社会主義は,資本というシステムは否定するが,他のやり方による,やはり生産力の拡大と豊かな消費の追求であり(ただそこでは,平等な配分という視点が強調されるが),社会主義が成功したとしても,それは,近代主義の内側のことがらである。リベラル派はそのまま近代主義であり,近代国家はその発展のためには,近代主義を必要とする。しかしながら,今日の問題は,近代主義自身の受容あるいは拒否なのである。
こうした,学問的な一般的共同体理解に対して,現実の日本の共同体には,独特なものがあった。日本の伝統的共同体の特異性として
自然と人間の共同体(人間だけの共同体ではなく)
そう言った日本の共同体の伝統を肯定的に受け入れて,著者は,共同体について次のように積極的な主張をします。
それに対して,近代主義は,人間は個人である,その内容は知性である,とする共同幻想に基づくものであり,知性を信じ,個人を信じることができた時代の産物であり,個人の知性が歴史を進歩させる力になるという,そういう時代は終わった。
現に,私たちの社会には,個人主義や知性に基づく様々な矛盾が山積みになっている。自然の破壊,バラバラになった人間たち,不安に包まれた時空,どこに行ったらよいかわからなくなった未来,とりあえずの経済主義など。
この課題の解決には,近代主義を残しておいて,その人間主義と知性重視に基づいて,その原理の内部で,それを改革していくのではダメで,近代主義自体を捨てて(つまりパラダイムの変換),人間は,自然,歴史,文化との関係の中で成立するものであるとの関係性の立場に立ち,人間を,個体にも,知性にも還元されない時空,すなわち,関係の場の中で,とらえることが必要である。そこにおいて,共同体も新しい,基本的な意味を持ってくる。
そう言った日本の共同体の伝統を肯定的に受け入れて,著者は,共同体について次のように積極的な主張をします。
それに対して,近代主義は,人間は個人である,その内容は知性である,とする共同幻想に基づくものであり,知性を信じ,個人を信じることができた時代の産物であり,個人の知性が歴史を進歩させる力になるという,そういう時代は終わった。
現に,私たちの社会には,個人主義や知性に基づく様々な矛盾が山積みになっている。自然の破壊,バラバラになった人間たち,不安に包まれた時空,どこに行ったらよいかわからなくなった未来,とりあえずの経済主義など。
この課題の解決には,近代主義を残しておいて,その人間主義と知性重視に基づいて,その原理の内部で,それを改革していくのではダメで,近代主義自体を捨てて(つまりパラダイムの変換),人間は,自然,歴史,文化との関係の中で成立するものであるとの関係性の立場に立ち,人間を,個体にも,知性にも還元されない時空,すなわち,関係の場の中で,とらえることが必要である。そこにおいて,共同体も新しい,基本的な意味を持ってくる。