「第二世代の女性」論

 

 また,別の話題ですが。

 一部(右寄り)ジャーナリズムのなかで,3人の国母ということが言われるようです。もちろん,ここでの国母とは比喩的な言い方で,日本国の全体的問題にかかわり,その解決に関して,象徴的な役割をしているというような意味なのでしょう。国母とは,古典的,文字通りには,天皇の母あるいは皇后という意味です。それでは3人とは誰々でしょうか。まず,美智子皇后,次に,横田早紀江氏,次に,櫻井よし子女史です。美智子皇后は言葉の本来の意味で国母ですが,他の二人は違います。また,ここで,このお三方が,この呼び方をされることを好んでいるかどうかは別な問題で,(多分迷惑と思っているのではないかと推察しますが),この言い方を,肯定的に受け取るか,批判的に受け取るかは別にして,ただ,皇后陛下,横田夫人については,それなりに納得させるうまい言い方になっていると思うのです。

 

 以上を前置きに,私の論じたいのは,皇后陛下,横田夫人を例に,女性の世代論なのです。

 

 まず,第一に指摘したいのは,皇后陛下,横田さんとも,おかれた境遇において,実に過不足ない(そこは,過でも,不足でもダメな世界です),見事な,行動をとっているということです。状況に対して,完ぺきな適応です。私たちにとって,皇室問題も,拉致問題も,批判は許されない,タブーの領域です。ということは逆に,そこにおける当事者は,外から無言にでも批判をされることのない行動を常に心がけねばならない,その上で,さらに,その領域が発展していくように,象徴的にリーダーシップを発揮しなければならない。ちょっと外れると壊れてしまうような,ガラス細工のような微妙な世界でもあるのですが,その点で,お二方とも見事に,ことを,わざとらしくなく,極めて自然に展開させています。しかも,女性として,です。

 なぜ,こういうことが可能なのか。ここで,世代論です。私は,それは,お二方の,個人的な資質によるのではなく,お二方が日本の近代化来の女性の歴史の中で第二世代に所属することによると思うのです。

 

 では,第二世代とは何でしょうか。端的に,結論を言えば,自己というものを,今ふうの自由な自己としてではなく,自分が置かれた状況における自分の役割として確立している,そこにあります。簡単に言えば,自分が役割を選ぶのではなく,役割によって自己を確定するということです。

 

 例えば,そのことを肯定するわけではありませんが,分かりやすい喩でいえば,旧民法のもとに家族制度がありました。家の存続が第一でしたから,当時の女性は,その中に,その家の嫁として入るわけです。嫁には課せられた役割が,なかなかハードな役割が,ありました。己を捨てて,課せられた役割に従う,そして,その原則は強固に身についていて,さらに,それに適うような,能力を,幼児期から訓練によって備えていた,多かれ少なかれ,そういうことです。

 

 それでは,それは,どの世代でしょうか。境界は幅がありますが,おおむね年齢的に言うと,大正以後の生まれで,今75歳以上(せいぜい下げて70歳)の世代であろうと思います。皇后陛下は昭和8年の生まれ,横田さんは,昭和11年の生まれだそうです。しかし,今日,大正初年生まれは100歳になりますから,現実には,現在生きている75歳以上の女性ということです。でも,この下限をどこにとるか,ここは微妙で,議論の余地があります。

 

 この第二世代の特性をもっと具体的に言うとこうなります。社会の中で生きていくには,人々に与えられた役割というものがあります。社会は,その役割の総合としてあります。その際に,自己というものが最初から確立してあって,その自己が納得して己の役割を選ぶと考えるか,役割を果たすことによって自己が確立されていくと考えるか,二つの道があります。第二世代は迷いなく後者をとるということです(批判者からは,自己が確立していないなどといわれる点ですが)。ミード流に言うと社会的自我ということになります。

 

その特性を,私がこれまで接した第二世代の人々を思い浮かべながら,具体的に羅列してみます。みなさんそれぞれのイメージがあるでしょう。

l  与えられた役割を果たすことを,自己の使命とする。

l  まずは家庭内で主婦として仕事をこなす(炊事,子育て,しゅうとの世話,・・・)。

l  家の外に対して,しかるべき応対ができる。(適切な人間関係を作れる,形式的な付き合いがきちんとできる,・・・)

l  他に対する接待(ホスピタリティ)

l  それらに対する訓練を受けている

 こういったことが迷いなく身体にしみこんで,なされるのです。(そのことに,旧憲法,旧民法,したがって男女差別の問題が関与していると言ってよいでしょう。)

 

これに対して,第二世代以降今日までの女性を,第三世代と呼ぶことにしますが,第三世代は,自己から出発します。どの役割をとるかは,自己の選択の問題になります。ですから,旧世代に課せられていたもろもろのことがらは,必然性ではなく,気に入ったら,納得したらやるという選択の対象になります。そこが第二世代と第三世代の違いです。

 

例えば,第二世代は,家庭内の,炊事,育児,外との付き合いを,自分の役割として心得ていた。それゆえ,そのためのトレーニングを受けてきています。だから,身についたものとして,迷わず,それらをします。第三世代にとっては,これらは,選択科目ですから,(実際には選択の余地なくやらざるを得ないケースが多いのですが,)そこにちょっと,間がある,義務感,身近さにおいて,距離が出てきます。その距離は,第二世代と年齢が遠くなるにしたがって,だんだん開く。つまり,自分ごとではない,その事柄に対する,最終責任者とは,意識しないのです。

 

したがって,第二世代が得意としていた,家事一般(炊事,洗濯,掃除・・・),育児,近所付き合いを含めておつきあい(特に形式的な)が,第三世代ではおっくうになります。確かに,これらは,誰かがやらなければならない事柄ですが,女性がやらなければならないという根拠はどこにもないからです。

 

私がここで言いたいことは,第二世代のような行動がとれるか,第三世代的な生活をするかは,人間の資質の問題ではなく,受けてきた教育,環境,訓練の問題だということです。分かりやすく言えば,皇后陛下や横田夫人が,見事に役割をこなしているとすれば,もちろん当人の能力の高さ,そこに至るまでの経緯はあるでしょうが,もともと第二世代に属する女性が,その境遇に入ったからだと思うのです。

 

事柄として,分かりやすいという目的からのみ言いますが,皇室については,皇太子妃が,神経症を患い療養中であること,そしてその原因は多分,その立場,役割からくるストレスによるであろうこと(もとより正確なことは何も我々にはわかりませんが),これは,本人の資質ではなく,皇太子妃が,明らかに第三世代に属することからくるものなのです。第三世代の皇太子妃には,皇后のような振る舞いはできない,もし,第三世代の誰かがまねしたとしても,人工的で,ぎこちないものになります。

 

皇太子妃でなくても下々でも,第三世代は,第二世代がきわめて自然にこなしていた,外との形式的なお付き合い,敬語の使用,見知らぬ人ともきちんと話せる,炊事,育児を義務とする,それが不得手になります。(もとより,なんで,それらを女性がしなければならないのだという,権利的問題は残りますが,ここでは現象としてということです)。それは,第二世代と第三世代では,どちらが,女性として,人間として,望ましいかというような問題ではなく,教育,環境,訓練が違うのです。

こんなことを思いながら,NHKのテレビ番組「クローズアップ現代」(710日放映)を見ていましたら,この5月に66歳でヒマラヤのダウラギリで,遭難して亡くなった,女性登山家河野千鶴子さんの話をしていました。彼女は,看護師をしながら,3人の子を育て(第二世代),50歳で登山を始めて,その後8千メートル級の山をいくつも単独行で踏破(シェルパはつきます)しましたが,その動機は,女性としての役割を負わされ,そのことに不自由を感じていたこと(第三世代)にあるとのことでした。女性としてはつらつと生きる道を登山に見出したということでした。(「山に行けば,男女の線引きもなく,一人一人の瞳が輝いていた」と残されたノートに書いています)。つまり,第二世代と第三世代の境界領域,その間の板挟みということです。この第二世代から第三世代への移行に,男性中心の社会から男女平等の社会への移行が対応していて,議論は大きくなるわけです。(テレビ番組には,田部井淳子さんもいて,キャスターの国谷氏,もう一人ゲストの女性作家の3人で,その辺について,話が盛り上がっていました。)この過渡期,第二世代,第三世代の境界領域には,また,興味深い問題があります。

 

皇后,横田さんは,特別な境遇におかれた第二世代ですが,世俗の第二世代も,今次の大戦をはさんで,日本社会の中で,きわめて影響力のある,いわば,一つの文化を体得していた世代と言ってよいでしょう。しかし,第二世代は,下限を70歳と下げても,あと20年も経てば,いなくなります。いわば,絶滅危惧種です。20年たって,第三世代ばかりになったとき,世の中はどうなるか(すでにその状況は始まっています)。第二世代は,いわば選択の余地なく,炊事,育児,外との付き合い(これは要するに人間関係の保持ということです),これらを,女性として(ここがポイントです)引き受けてきたわけです。その世代が消えてしまう。その仕事はどこに行ってしまうのかということです。今日すでに,外との形式的付き合い(人間関係)は面倒なだけの,不要物として,廃棄される方向にあります。でも,炊事,育児は,誰かが,やらなければなりません。誰がやるか。一つの道は,市場にまかせて外注にだす。もう一つは ,男がやることにする(ただ男は能力的に意志的に信用できない)。あるいは,画期的な新しい社会システムを作り出す。そんなところでしょう。難しい問題です。

 

さて,ここまで,第一世代については触れてきませんでした。第一世代はすでに絶滅種です。それは,第二世代以前の女性,日本の近代化(明治維新を目安にして)来,明治の終わりまでの女性の世代と言えます。この人たちの代表は,乃木将軍の夫人の乃木静子です。彼女は,夫に殉じて死にました。また,NHKのテレビで,戊申戦争をやっていましたが,この間ひょっとのぞいたら,会津藩士の夫人連が,子供まで含めて,刺し違えて自死している場面でした。この世代は,状況によれば,夫に殉死できるのです。別の話題でいえば,夫にいわゆる妾の存在を許す世代です。これが第一世代の特性です。第二世代にそこまではできません。この感覚は,第二世代には失われたものでしょう。

 

ついでに世代批判というものがありますが,下世話に言えば,第二世代から見れば,第三世代はだらしないかもしれません。しかし,第一世代からいえば,第二世代は基本ができていないということになります。(第一世代からいえば,夫の死後のんきに生き延びるなどは,妾に騒ぎ立てるなどは,生ぬるい限りです)。もっともこれはお話で,第一世代が全員殉死したわけではありませんし,第二世代にも,気合の入っていない人はいたわけです。

 

言いたいことは,かく,世代の違いは,生き方において,根本的な違いを招くものであり,人間生活にとって,大きな影響力を持つものだということです。しかも,世代の違いは,個人の資質でもなく,人間性の問題でもなく,受けた教育,育った社会のあり方に依存します。深い理由はなく,それだけのことです。だから,良しにつけ,悪しきにつけ,恐ろしいということです。乃木夫人から最先端のAKBまで,人はどれかの世代に入って行動するわけです。(私の希望を言えば,さすがに,ヤンキーふうはゴー・ホームに願いたいのですが)

 

以上,私は,女性たるものは第二世代的であるべきだというようなことを言おうとしているのではありません。ただ,私の年齢の者として,第二世代の女性とその文化の中で育ち,生活してきましたから,この絶滅危惧種になってしまった第二世代の女性,その文化をどう評価するか,それをどのように残すのか,残さないのか,第二世代の女性の果たしてきた役割を,簡単に市場が代替できるのか,ましてや,男が代わることができるのか,気になるのです。現実的には,今後,ハイブリッドというようなややこしい形で,ごまかしながら,やっていくことになるのかもしれませんが,とすれば,第二世代がきちんと万事をこなしていた時代は,その当事者にはご迷惑だったかも知れないけれど,(男女格差の問題にある程度の折り合いがついていれば)人間的な意味では,それなりの時代だったなと思うのです。

 

 以上,女性を対象に,世代論をやりましたが,その含むところは,男性は取るに足りないということです。第二世代に対応する男子のやったことは,戦争を始めて,そして負けた,その流れを誰も止められなかった,そして今に至るも反省していない,それに尽きます。それと,男子むきの,天下国家とか,会社・企業などという,パブリックではあるが,作りものの世界に対して,日々の炊事,子育て,お付き合いというような領域は,ローカルの極みであるが,実体的な世界であり,こちらが基本だということです。それを誰が担当するかは,今後の問題として。