老人学(1)―生死ー

 

少し話題が変わりますが,このH.P.でやりたいことの一つは,おおげさに言えば,老人学の構築でした。老人とは何歳からか,私にとっては,退職した70歳からとしています。それから2年ばかり経ちますが,なかなか老人の全体像がつかめず,それでも,このごろ,多少イメージが見えてきました。少しずつ書いてみます。

 

私の家の近辺はまだ畑があります。ときどき歩きますが,今は,田植えがすんで,「揃った,出揃った,早苗が揃った」という状態にあります。水田という泥地の上に,広く,青々とした早苗,きれいなものです。そこで思ったことは,作物の生育と,それに伴う大地の役割でした。でも大地の形態はいろいろです。砂地あり,荒地あり,また,泥地あり,耕された過保護の大地(畑と言います)に育つものもあるわけです。

 

同じように,人間の一生も,その時々,それぞれの大地の上に,成立してきたものだなと思います。青春時代は,弾力ある大地に将来を思い,壮年のころには,大地に踏ん張って生活を築いてきました。それでは,老人の大地は何なのでしょうか。あぜ道を歩きながら,それは田んぼのような泥地かなと思ったのです。中に入れば,膝まで泥で,踏ん張れない。進もうとしても急げない,何をやっても,効率が悪い,失敗も多い,くたびれる,ときどき転ぶ。しかし,老人の田んぼには,本物のようにいつか泥沼が,豊饒な大地として黄金に輝くようになるというような希望はない,老人は最後,泥地に沈んで終わるから老人なのです。田んぼというのは穏やかな,きれいな,比喩です。本当は,メタンの吹き出る,汚い,底なし沼にたとえる方が,正確かもしれません。でもそれでもこれも大地だというのが救いです。

 

老人生活の詳細は追々,老人学として,取り上げるとして,まず誰でも思う老年の大問題は,「先がない」「次がない」ということです。それで終わるということです。(生と)死の問題です。これには,いまだ万人が納得する解が与えられていません。でも,解くことはできると思うのです。ただ,方法を間違えると解けない,解は方法とセットなのです。また,深刻にやりすぎてはいけない。あまり深刻に取り組むと(実体的に取り組むと),迷路に,あるいは,洞穴に入り込んでしまって,感傷的になるだけで,本題と離れます。

 

問題の中心は,生と死は全く別物だと,両者の間には超えられない断絶がある,結ぶ術はない(と思われている)ことです。曰く,死は生の否定である,生は体験的にもよく分かっているが,死については全く分からない。だから生と区別されて,死は実体としてあるが,両者は異質なものである。こういった二元論です。そこからいろいろな問題が派生します。死の不分明さ,それに由来する恐れは,この二元論から来ます。死は生に連続して必ずくるが,その際,生は分かっているが,死は分からない,ということです。こういった,死への恐れや,不分明さ(疑問)を,どう解決するか,老人の解くべき問題の一つです。

 

解決に向けての,一つの方向は,二元論から問題が派生するのならば,二元論を一元論にしてしまうことです。生と死の間の断絶を埋めて,生と死を同じものと考えることです。宗教など言われるものも,究極には,こういう話題に答えるそのやり方に,それぞれの特徴があるのでしょう。

 

それについて,下世話な,通俗な話題を,4つ提供しましょう。(ただし,下世話,通俗的という言い方は,あえて言うので,否定的な意味合いはありません。この問題の解答は,下世話,通俗でなければ,意味がないのです。ここがポイントです)。

 

その1 

ある知り合いの,もう教会生活が長い市井の主婦の方との会話です。その方曰く,「キリスト教の信仰の核心は,永遠の命ということにある。牧師さんも言っていた,このことへの確信によって,人は,死を前にして,混乱しないで過ごせる,(死の恐怖から解放される)。そこに信仰の核がある」。

 

その通りでしょう。「永遠の命」とは,人は死なないということです。あるのは生だけで,ずっと生き続けるのだから,生と死の断絶もなければ,二元論も成立しません(永遠の命という一元論です)。こういう解決です。これは正しい解決だと思います。死は住所変更だということでしょうか。

 

その2 

若いころ,親戚の法事などに行くと,法事の後の接待の席などで,一族の年頭(長老)のような人がいて,お坊さんの隣に座って,もっぱら話し相手になっていたものでした。このごろ,法事があると,その役が私などに回ってきて,まさに隔世の感ですが,それも老人現象の一端です。そんなある時,お住持さんは生死の問題について,どんな説明をするだろうかと,ちょっと水を向けたことがあります。

 

住持さん曰く,「人が生きていくというのは辛いものである。生は苦である,また,世の中,何が起こるかわからない,生は無常でもある。生きているについて,そういう実感が大事で,私なども修行中は,身体的にも辛い,精神的にも恥も外聞も捨てざるを得ない体験をして,苦と無常について深く考えてきた。死というのは,苦と無常の最たるものだが,生も同様に苦であり無常なのだから,死は特別なものではない。従容として死を受け入れるというのが覚悟である」というような要旨でした。

要するに,人間はもともと死んでいるのだから,そのことを承知していれば,死は特別なことではない。もう一度新たに死ぬということはない。かくして,ここでも生と死の二元論は成立しません。これも正しい論でしょう。

 

生と死の断絶,生と死の二元論に対して,キリスト教(永遠の生命論)は,死は存在しない,存在するのは生だけである,という一元論で対応します。一方,仏教(苦と無常の理論)は,私たちはすでに死んでいる,生は見てくれのものに過ぎない,事柄はすべて死であるとして対処します。どちらに立ってもよいのですが,このことを納得できれば,死への無知も,死への恐怖も,成立しなくなるのです。

 

私は,これらはともに,正解だと思うのです。そして,非常に強力な解だと思います。ただ,極めて,通俗な議論だとも思うのです。ただし,ここで,通俗とは否定的に言っているのではありません。なぜなら,人間は,まさに通俗の世界に生きているのであるし,最前線の牧師さんも,お坊さんも,まさに,通俗の世界と,もう一つの世界を繋ぐ,繋ぎ目,インターファイスのような位置にある人たちですから,通俗につながらない答えは無意味なのです(仏教では通俗を「方便」といいます)。だから,上の議論は,多くの人に対して説得力あるものです(ちょっと疑点は残しながら)。また,これは,キリスト教と仏教の違いの,まさに通俗的な分かりやすい説明にもなっています。

 

その3

さらに,この問題に対する,もう一つの,これもまた下世話,通俗な説があります。それは,改めて,取り立てて,生とは何か死とは何か,生死はどのような関係にあるか,など,このようなことをぐずぐず言って,何になるのか。無駄じゃないか。このような,多分,答のない,時間つぶしな,答えがわかったからといって実質的な何の役にも立たない,つまり無意味な問題(こういう問いを,悪口を込めて,形而上学的問題といいますが)は,スルーするという立場です。

もっと下世話な例を出せば,生とは何か,死とは何かなど,気取ったことをいうなよ,気障じゃないか。ぐずぐず言わずに,生はノリで,死は気合でやっていけばいいんだ。(これは,今日流行のヤンキー思考です)。

 

現実に,死の問題などは,私たちの意識がはっきりしている間の話で(意識の遊びで),死ぬ間際には,次第に意識が混濁してくる,あるいは,今後,三度目の原爆が頭上に落とされたとすれば,原発が大爆発すれば,その時は,前触れもなく,意識がなくなってしまう,そこに何も問題は生じない。そういう,唯物的な解答なのです。無意味な,形而上学的問題を避ける,それらに答えない,このことを,釈尊は「無記」とよんでいます。これも通俗的に大正解でしょう。しょうがないものはしょうがないという立場です。

 もっとも,「方便」とか「無記」について,こういう文脈で,内容はこれだけに限って解説すると,仏教教理的には,ちょっと勿体ないのですが,でもこの通俗性は正しいのです。

 

その4

岸本英夫博士は,宗教学の碩学で,皮膚がんを患い,10年間の闘病の後に,1964年に61歳で亡くなりましたが,その体験をもとに『死を見つめる心』(講談社文庫,1964)という書物を残しています。岸本博士を通俗というと怒られるかもしれませんが,極めて通俗な見解を述べています。

 

 要点は,私たちは,日常生活で,日々,いろいろな別れを体験している。死というのはこのような別れの大仕掛けのものではないか。日常的な別れの場合,まさに日常的に,いろいろ心の準備をする。大きな別れについても,日ごろから,準備をしたらどうか。死の練習,死のトレーニング(これは博士の言葉ではありませんが),を折に触れてしたらどうか。練習,トレーニング,極めて,通俗なことがらです。でも正しいと思うのです。

 

 参考に,博士の著書から引用しておきます。(上掲書p.30 「序章 別れのとき」の<死への心の準備>,<死の別れの意味>から)

 

 「人間は,長い一生の間には,長く暮らした土地,親しくなった人々と別れなければならないときが,必ず,一度や二度はあるものである。もう,一生会うことはできないと思って,別れなければならないことがある。このような「別れ」,それは,常に,深い別離の悲しみを伴っている。しかし,いよいよ別れの時が来て,心を決めて思いきって別れると,何かしら,ホッとした気持ちになることすらある。人生の,折に触れての,別れというのは,人間にとっては,そのようなものである。人間はそれに耐えていけるのである。

 死というのは,このような別れの,大仕掛けの,徹底したものではないか。死んでいく人間は,みんなに,すべてのものに,別れをつげなければならない。それは,たしかに,ひどく,悲しいことに違いない。しかし,よく考えてみると,死にのぞんでの別れは,それが,全面的であるということ以外,本来の性質は,時折,人間がそうした状況に置かれ,それに耐えてきたものと,まったく異なったものではない。それは,無の経験というような,実質的なものではないのである。

 死はそのつもりで心の準備をすれば,耐えられるのではないだろうか。ふつうの別れのときには,人間は,いろいろと準備をする。心の準備をしているから,別れの悲しみに耐えてゆかれる。もっと本格的な別れである死の場合に,かえって,人間は,あまり準備していないのではないか。それは,なるべく死なないもののように考えようとするからである。ふつうの別れでも,準備をしなければ耐えられないのに,まして,死のような大きな別れは,準備しないで耐えられるわけはない。では,思いきって準備したらどうであろうか。

 そのためには,今の生活は,また。明日も明後日もできるのだと考えずに,楽しんで芝居を見るときも,碁を打つときも,研究をするときも,仕事をするときも,ことによると,今が最後かもしれないという心かまえを,始終もっているようにすることである。そして,それが,だんだん積み重ねられてくると,心に準備ができてくるはずである。その心の準備が十分にできれば,死がやってきても,ぷっつりと,執着なく切れてゆくことができるのではないか。

 このように心の準備ということに気づいて見ると,ずいぶん,心が落ち着いてきた。死というものが,今まで,近寄りがたく,おそろしいものに考えられていたのが,絶対的な他者ではなくなってきた。むしろ,親しみ,やすいもの,それと出逢いうるものになってきたのである。」

 

「このことについて,さらに,つきつめてみると,死という別れと,ふつうの別れと,どう違うかということにゆきあたる。ふつうの別れのときは,今まで親しかった人や,その社会に分かれてゆくことはつらいけれども,また,つぎの行く手がある。その行く手のことを考えながら別れることができる。死の場合には,死後のことが分からない。あるいは,死後のことは考えまいときめた立場からすると,これは,行く手のわからない別れになる。そこに深刻さがあるのである。船が出ていく波止場の光景で考えれば,別れていくという事実はあるが,その船はどこに行くのかわからない。そういう別れだから深刻になる。しかし,死後のことはしらず,この人間生活だけが生活なのだという立場を徹底して考えると,人間の意識の中にあるものは,けっきょく,いままで,自分のやってきた人生経験だけである。われわれがしっているのはそれだけで,それ以外のことは考えられない。経験したことのない死後の世界を無理に考えようとするから,わからないで悶絶してしまう。われわれが悩みうる領域は,人間経験についての悩みのみである。

 この船出はどこへゆくのかわからない船出である。自分の心をいっぱいにしているのは,今いる人々との別れを惜しむということであり,自分の生きてきた世界に,うしろ髪をひかれるからこそ,最後まで気が違わないで死んでゆくことができるのではないか。死とはそういう別れかただ。私は,こう考えるようになったのである。」

 

「しかし別れのときという考えかたに目ざめてから,私は,死というものを,それから目をそらさないで,面と向かって眺めることが多少できるようになった。それまで,死と無といっしょに考えていたときは,自分が死んで意識がなくなれば,この世界もなくなってしまうような錯覚から,どうしても脱することができなかった。しかし,死とは,この世に別れをつげるときと考える場合は,もちろん,この世は存在する。すでに別れをつげた自分が,宇宙の霊に帰って,永遠の休息に入るだけである。私にとっては,すくなくとも,この考え方が,死に対する,大きな転機になっている。」

 

以上,老人として快適に生きるには,生と死の二元論を超えることが望まれるのですが,それにはどんな道筋がありうるか,下世話な,通俗的な,4つの見解(もう一度繰り返しますが,通俗性を批判しようというのではなく,私は通俗性にこそこの問題の本質があると言いたいのです)を紹介し,問題を,途中まで,考えてみました。ただ私は,結論は受け入れるとして,その説明の仕方に,別なものを考えるのです。それはいずれ述べます。

 

社会保険とか,年金とは別な,もう一つの老人問題を扱いました。