憲法とわび状

 

 日本の首相は安倍総理ですが,饒舌に発信するメッセージを聞いて,私には,合わないところが多いのです。それは,政治的信条という以前に,ものの見方,考え方なのですが。気づいたことを,少々述べます。

 

 例えば,テレビの画面で,何かの折に,指を一本立てながら,世界一を目指そうではないか,など言っていました。30番ではダメですかというのが,私の突っ込みです(2番ではダメですかといって大衆的に失脚した政治家がいましたが)。ことがらには,1番がいれば,20番も50番もいるわけです。1番がよいのなら,他はダメということになりますが,20番も50番も人間です。ことがらは全体として成り立っているのであって,そこにおける一つ一つには違いはありますが,序列はもともとありません。序列は結果に関して言える,仮設のもので,実体ではありません。しかし,序列に一極的にこだわるのが,この思考です。オリンピックでも,国際何とか大会でも,技術開発でも,そうです。序列上位をよしとする,勝った,勝ったという,こういう,競争的,序列的価値意識は,今日特に日本には無邪気に一般的ですが,単に考え方の傾向のひとつにすぎません。しかし,その根っこはどこにあるのでしょうか。日本人論として面白い問題です。

 「美しい日本」と何の疑いもなく言います。振り込め詐欺の横行,様々な小暴力の存在,いじめ(学校だけのことではありません),利己主義,他人の切り捨て,これらが美しいとは思えません。ちゃんと見えているのでしょうか。多分,自分の国は,他より優れていなければならない,だから,美しくて,全員が高い能力を持つ国であるはずだということなのでしょう。現実の観察ではなく,観念の先行です。ちょっと考えても,日本以外にも国はあって,人々はそれぞれに生活しています。日本だけが優れている根拠はありません。どの国にも良い点も弱点もあるのです。にもかかわらず,日本は,はなからアプリオリに優れているとする,こういった思い込み,これを夜郎自大と言いますが,こういう考え方の根はどこにあるのでしょうか。

 

 序列意識,誤った尊大な自己意識,こういった観念を捨てれば,平和で,もっと愉快な,別な世界が開けてくるのでしょうが。

 以上は前置きで,ここで論じたかったのは,憲法改正の問題です。総理は,日本の自立性を確保すべく(戦後レジームを否定すべく),憲法改正をしたいと言っているようです。私は,改憲は,この憲法の精神から,できないと思うのです。その理屈は次です。

 

 現行の憲法は,議会制民主主義,三権分立,議院内閣制,基本的人権の承認,旧来の身分制,家族制度の廃止,その他,日本国の,統治システムを,決めています。それに従って,戦後60年,日本国は運営されてきたわけです。それはそれでよいのですが,それに合わせて,憲法には,成立に際して,人々が共通に抱いていた精神というようなものが,その底に,あると思うのです。この憲法の精神として巷間,いろいろ言われます。民主主義だとか,戦争の放棄だとか。しかし,私はそうではなく,この憲法の精神は,それが「わび状」であったことにあるたのだろうと思うのです。そういうとらえ方が私にはぴったりくる。

 

 それでは誰に対する,何に対する「わび状」でしょうか。二方向に考えられます。

 

 第一には,日本の近代化来,日本の拡大主義の対象となった国々,そして,今次15年戦争の犠牲者,被害者に対して。つまり,対外的なわび状です。(アジア諸国が中心でしょうが)。こちらの恣意によって,相手に犠牲を強いたことに対してです。これまで日本の戦争責任というと,もっぱらこちらが問題にされてきました。ですから,こちらは,それなりに意識されてきました。

 

 しかし,これまで,抜けていたのは,第二の,次なのです。

 

 それは,自国民に対するお詫びです。日本の近代化,拡大主義,そして戦争,その過程において,日本国内で犠牲になった人々,望まないことを強制された,人生を自分の意志で過ごすことのできなかった,人々に対してです。それは,少数を除いて,ほぼ当時の日本人の全部といってよいでしょう。その中で死者としての犠牲者は,数字的には,兵士,民間人合わせて310万人といわれます。軍人230万,民間80万,沖縄戦19万,東京大空襲9万,広島原爆14万,長崎原爆7万などです。直接,戦死,爆撃死は免れても,家族をとられた,財産を失った,人生設計に変更を余儀なくされた,その結果その後しなくてもよい苦労を背負った,そういう人々ももちろん犠牲者です。当人の望んだのではないにもかかわらず,戦時体制に,当時の国家に,深く関わらなければならなかった人たちです。私の伯母で,主人が戦死し,いわゆる戦争未亡人として,戦後を生きた年寄りがいます。このことについて聞くと,伯母はそういう時代だったといっていますが,そういう時代であったこと,そういう時代を作ったことに対する反省,お詫びがあってしかるべきです。これが,新憲法の,戦争の放棄,基本的人権,平等などの規定,そしてその実践であったはずです。

 

 つまり,この憲法の精神は,対外的にも,対内的にも,過去の不都合を詫びることにありました。詫びるということは,過去の失敗は繰り返さない,という実践です。

 

 国というものがあるとするなら,その役割は,対外的な国威の昂揚ではなく,一番になることでもなく,自意識の過剰でもなく,自国民の福祉を大切にすることです。敗戦以前は,そういう体制でなかった,それができなかった,逆の方向に人々を強制した,犠牲を強いた,それは間違っていた,そのことに対する詫びが,憲法の精神であったと解釈したいのです。

 問題は,憲法発布後,60年になりますが,対外的にも,対内的にも,心から詫びてないことです。

 

 第一の対外的責任,詫びについては,しぶしぶでも(そこに問題があるのですが)話題にはされてきました。しかし,本気で詫びてはいないようです。

  1. 詫びるのは,国の存続や,新しい展開のため,せざるを得なかったからであって,それは便宜上である,
  2. これまで十分詫びたのだからもういいだろう
  3. 中には,今次の敗戦は仮の姿で,本当は負けていないんだという考えもある(このことについては,白井聡;『永久不敗論』,太田出版,が話題になっています)

 

 今日の中国や韓国との軋轢のもとはここにあるのではないでしょうか。詫びても,本気でなかったり,もともと悪いことは何もしていなかったとか,もう十分詫びたじゃないかとすると,それは詫びにならない。本当に詫びていると認められない限り,この問題は終わらないのではないでしょうか。少なくとも,その点で,日本国民は,これまで,うまくやってこなかった。お互いの不幸ですが,問題が長引くわけです。

 

 それでも,対外的な詫びの問題は,これまで,内外両方の立場から,取り上げられては来ました。それに対して,対内的な責任,詫びについては,蔑ろにされた,あるいは,意図的に無視されてきました。多分,こちらの対内的な責任,詫び,を意識させないように,意図的に,第一の問題の方を,過度に議論の対象にしてきたのではないかと私は勘繰ります。そのやり方は,日本が今日このように繁栄してあるのは,これら先人の犠牲あっての故である,分かりやすくは,犠牲を英霊に祭り上げて,詫びの問題を隠してしまったのです(詫びずに済ませてしまったのです)。だから,国内的にも,戦争の問題がいまだ解決せず,戦前の旧弊が,いまだ消えないで,英霊ならざる幽霊の如くふらふら出てくるのです。

 

 しかしながら,戦後,新しい国として出発せざるを得なかったとき,出発点にあったのは,これまでは間違っていましたという,反省と詫びであり,そして,それに見合う実践であったと思うのです。
そういう状況で憲法はできたのだから,憲法の精神は,わび状なのです。具体的に言えば,対外的には非を認め,対内的には,福祉社会を築きあげて,ようやく,詫びは適うわけです。

 

 わび状は,相手がもういい,許すというまで,こちらから,破棄するわけにはいきません。戦後60年の実践を振り返って,対外的に,また,対内的に,許されたといえるだけのことをやってきたかといえば,国際的には日本への信頼感の希薄さ,国内的には振り込め詐欺の常習化(こういう悪いやつがいる,詐欺というのは窃盗より潔くない,窃盗は自分の技術だが,詐欺は人の誠実さを逆手に利用している)をみても,自信をもって,そうは言いきれないでしょう。それ以前に,もっと厳しく詰めれば,本気では,詫びていなかった,と思えるのです。ですから,今日やるべきことは,戦後のレジームを組み替えることではなく,詫びるという憲法の精神に戻ることです。だから,詫びが認められるまで,もう許すといわれるような,平和で,安定した(美しい?)社会が作られるまで,憲法の改正はできないのです。そしてそれができないことを,人のせいにしてはいけないのです(努力と意欲の欠如)。

 

 憲法を改正することは,わび状を破棄することです。わび状の破棄は,こちらからいいだすことではありません。十分に誠意が通じたところで,相手の方から,もういいよと言われて,OKになるのです。

 

 今日の日本の問題は,戦後60年たっても,いまだ詫びの問題が解決していないことです(詫びていない,あるいは,詫びがかなっていない)。もう一度,わび状に戻って,そこを原点とする,そこにあります。