金融とマーケティングの落とし穴―マーケティングの巻

 

私たちの社会では,貨幣の媒介によって,様々な「もの」が,商品として,自由に行きかっています。そのことはよいのですが,その貨幣の機能の展開と拡大によって,①貨幣の対象(商品とみなされるものの種類)が,実体でないもの(社会によって作り出された仮想,概念的なもの,単なる仮想)にまで拡大され,②そして,それらは,すべて,貨幣の対象として,その意味で,同種のものとされ,最終的には実体として現実にあるものとされ(物象化),③さらに,貨幣の示す数字の序列によって,ものの方の差別化,序列化がなされるようになってきました。

 

私たちは,今日,貨幣のシステムの中で生活していますが,それは,現実には,貨幣の対象としての商品の中で生活することであり,その商品には,実体でない仮想的なものが実体と思い込まされながら混じっていますから,今日の貨幣システムを受け入れることによって,私たちは,全体としては,実体と仮想の入り混じった世界に生活していることになります。

 

そういうことが,なぜ起こったかといえば,本来,貨幣は,実体的なものだけを対象とする,交換の,手段,道具であったにもかかわらず,そのタガが外れて,あらゆるものが貨幣の対象とされ,実体でないような対象も含めて,すべては貨幣の対象とされ,実在とされ,それらによって私たちの生活は構成されるとされるようになりました。「もの」が先にあって,次に,それを動かす,手段,道具(貨幣)が成立するという順序が逆転して,道具,手段(貨幣)が先行して,それに合うように「もの」が想定されるという逆転が行われたわけです。

 

しかし,そのようにしてできた世界(私たちの現実にこの世界に生活しますが)には,実体と,仮想が混ぜこぜに入っていて,両者は原理が違うから,究極的には,アポリアが生じるという内部問題と,そういったシステム(世界)が,人間にとって,happyかという,外部問題があって,その問題が,今日,批判的に,露呈されつつあるということです。

前回はそのようなことを述べました。

 

こうした貨幣を媒介として行われる,(広義の)商品の移動の場が,市場です。

そして,この市場において,商品の移動が,より広域に,より効率的に行われるように,様々な工夫,努力がなされてきましたが,それらの総体が,マーケティングと呼ばれる分野であり,そこに,マーケティングの手法,マーケティング的思考というものが成立します。

 

マーケティングの内容は,大きく分類して,羅列的にあげれば,次のようになるでしょう。

     商品の情報を,受け手(消費者)に伝える (商品→受け手)

説明,広告,宣伝,・・・

     受け手が何を望んでいるかを知る (受け手→商品)

市場調査,需要の把握,消費行動の調査,・・・

     供給者から,受け手に至る,商品の移動を効率的にする (経路の整備)

流通,店舗,展示,支払方法,・・・

 

確かに,マーケティングを意識することによって,商品の移動は,量,効率ともに,格段に進歩していきます。

まず,消費者は,商品の情報を得て,選択の幅がでますし,流通の経路がしっかりしていることによって,品物を得やすくなります。一方,生産者は,消費者の側の儒要,期待を知り,すぐに的確に反応できるようになります。かくして,商品は,広く,効率的に流通するようになります。ここまでは,消費者という実体があり,生産者という実体があり,商品という実体があり,その間に,貨幣を媒介にして,市場が成立しますから,分かりやすい。ここまでは,マーケティングは,商品流通を,市場を,効率的にするための,手段,道具でした。

 

しかし,マーケティングの領域,手法は,貨幣がそうであったと同様に,自らに内在する論理に従って,拡大,発展していきます。

次には,こういうことが起こります。

    商品があったとき,また,商品の開発が企画されたとき,マーケティングは,その商品が売れることを目的に,広告,宣伝,価格の設定,消費者に対する心理操作など,様々な手法を駆使します。そして,その結果,そこに新しい流通の道筋(新しい市場)が作られます。この道筋は,商品にそって自然に作られ道ではなく,マーケティングの手法によって作られた道です。そして,今日,マーケティングが一般になるにしたがって,当初とは逆に,商品はこの道(市場)に合うようなものとして成立することになります。マーケティングが市場を作り,市場が商品を生み出し,制御するということです。

    かく,マーケティングは,自らの作り出した市場に従うように,商品を制御しますが,一方では,もともとはなかった需要を新たに作ることもします。消費者に対する心理操作と,目の前に,便利な購入の場を用意することによってです。マーケティングが市場を作り,そこに,消費者をはめ込むということです。

    マーケティングは,最初は,成立している,実体からなる市場を,効率的にする技法でしたが,いつの間にか,市場を作る技法になりました。しかも,技法ですから,もともと中立的です。ということは,目的が与えられれば,いかなる目的にでも対応するということです。原則として,そこには,手法を制限する原理はありません,手法は何でもありということになります。あらゆる手段を行使して(禁じ手なしに),目的に適うことがらを作り上げる,それをよしとするのが,マーケティング思考です。端的に言えば,手段,道具を工夫することによって,すべて,ことがらは作り出せるとする思考です。

 

要するに,流通に限定して言えば,マーケティングの手法を駆使することによって,そこに,新しい,本来なかった,その意味で仮想的な市場が作られるのです。そして,その市場を受け入れることによって(しばらくそこで生きることによって),私たちにとって,その市場が実体化,実在化されてくる,そういうことです。

 

以上,我ながら,拙い,冗長な,貨幣論,市場,マーケティング論を述べましたが,学問として,両方を十分に承知していれば,そこにおける術語を適切に用いて,もっと的確に話ができたでしょう。ただここでは,私の思う,根本問題を取り上げてみたということです。

 

最後に,私の意図を分かりやすくするために。下世話な喩えをしておきます。

今ここにAさんという人がいたとします(ここでAさんとは,some one あるいは,イギリスでいうJohn Dóeという意味で,特定な人のイニシアルではありません)。

あるとき,Aさんは,日本国の首相になろうと思いました。そこで,数十億円の資金と,数年の時間を与えて,大手の広告代理店と,自分を首相にするという企画の契約を結びました。Aさんはその時,白紙,中性的な人物で,政治的主張は何も持ちませんでした。おそらく,代理店は,Aさんに政治的色を付け,宣伝,広告を行い,大衆心理を作り,操り,つまり,マーケティングの手法によって,(日本の今の状況下では,)その企画を成功させるでしょう。それは多分オリンピックを招聘するより簡単だろうと思います。

 

ついでに言えば,さすがに,現状ではダメですが,貨幣と市場の操作に加えて,武力の行使も許されるとするならば,件の広告代理店は,世界制覇をも,受注できるでしょう(もっとも,こういうことが,受注,つまり,貨幣の対象でありうるとする思考が,まさに問題なのです。しかし,そういう世界が目の前にあります)。

 

現今の世界は,貨幣と,市場と,武力の混合(金融と,マーケティングと,軍事戦略との)として成り立っています。ですから,この3つを,掌握した,デーモンが現れたとしたら,この世界は,彼のしたい放題です。しかし,貨幣も,市場も,武力も,もともとは,(私たちが生きているのは実体の世界であるとしたうえで,そこにおける)手段,道具だったのです。(たとえば武力というのは,自衛のための手段であり,不正義に対する抵抗,牽制としての道具でした)。そういった実体に対して従であった手段,道具が,逆転して,実体の世界を支配するようになった,そこに問題が生じます。

 

以上「金融とマーケティングの落とし穴」と題して申したのは,貨幣や市場が不要だというのではありません。それどころか,貨幣と市場の成立によって,私たちは,大きな便宜を得ているのです。ただ,貨幣と市場が,拡大してしまって,本来の,手段,道具という範囲を超えて,それ自体が,生活,社会を支配するようになってしまった。実体を超えて,仮想の世界が入り込んできて,そちらが,主導権を握ってしまった。そこに,今日の社会の,いくつかの不具合のもとがあるように思うのです。さらに,仮想なるものに振り回されるのが,我々の生き方として,望ましいものとは必ずしも言えないでしょう。もしそうだとすれば,貨幣,市場の機能について,それらを,本来の,手段,道具に戻して,実体性と結びついた機能の範囲に境界線を引き,それを超えないようにする,多少超えても戻れるようにする,そのことが,大切と思うのです。実体の世界で生きるようにする,仮想の世界に生きないようにする(支配されないようにする),そのことです。

 

それでは,実体とは何か,仮想とは何か,これは,単純な2分法のもとで,どちらかを選べば,それで収まる問題ではありません。様々な問題を含みます。それについては,さらに,書きたいと思います。