金融とマーケティングの落とし穴―金融の巻

 

今,私たちの生活から,貨幣というものがなくなったとしたら,(貨幣を全く使わないことにしたら),どういう世界が開けてくるでしょうか。あるいは,同じことですが,歴史上,私たちの社会に貨幣が出現したことによって,何が変わったのでしょうか。ちょっと面白い想像です。

 

私たちの社会とは,もちろん,人間の集合体ですが,その要素としての人間の間には,財や,サービスや,情報のやり取りが行われています。そこに,それらの移動によって繋がる一つのネットワークが成立しているわけです。社会とは,こうしたネットワークのことです。私たちは,孤立して生きているのではありません。そういったネットワークの結節点として人間はあるのです。

 

それでは,これら(財,サービス,情報)はどのような仕組みで,この世界を移動しているのでしょうか。まず,分りやすく,財,その中でも,物品と呼ばれるものを取り上げ,その原理を考えてみます。

 

発生的に言えば,移動の最初の原理は,贈与です。贈与においては,物品は,与え手から受け手に,一方向的に,移動します。そして,そのことが成り立つには,その裏に,慣習,あるいは,儀式の存在が必要です。慣習や儀式を根拠として,慣習や儀式に従うという形で,贈与は行われます。したがって,そこには,そういうことを成立させる社会がなければなりません。

文化人類学がいうとおり,原始社会の交易は,贈与として儀式的な性質のものでありましたし,今日でも,母親が子供に母乳を与えるなどは,ある種贈与です。(その裏には,育児という,人間社会の特性である慣習あるいは本能が原理としてあるわけです。)

 

次は,物々交換です。これによって,人々は,贈与の受動性を超えて,自分に必要なものを,ある程度自分で選んで取得できるようになりました。ただ,これは,ものとものを突き合わせての直接交換ですから,そのための場の成立が必要で,そのことによって,効率はよくありません。

 

そこで成立したのが,第3に,「自分の持っている物品」を,いったん「貨幣」に替えて,その貨幣と交換に,「自分の望む物品」を得るという方式です。貨幣にも歴史がありますが,その時々に貨幣とされたものを媒介として,間接的な交換が可能になり,これによって,交換の自由度は増し,交換の場は広がり,ものの移動の効率は無限に近く上がります。また,今望まなくても,交換の可能性を,将来のために,貨幣の形で保管することも可能になります。これが標準的な貨幣の使い方です。

 

「贈与→物々交換→貨幣」と,このようにして,貨幣は成立し,便利に使われてきましたが,この段階では,貨幣は,あくまでも,物品を得るための,媒介,道具,手段になっています。だから,貨幣の前に,交換されるべき対象が,実体としてあるわけです。物品がまずあって,貨幣は,物品の交換の手段なのです。貨幣に対して,物品の存在が必要条件になっている。それが大切な点です。

 

ところが,貨幣の役割は次第に拡張されます。

 

まず,貨幣の交換の対象が,広がっていきます。並べて示すと,

    本来の貨幣の対象は物品(狭義の材)でした。物品とは,素材に,加工(労働による付加価値)が加わったものです。

    サービスが貨幣の対象(交換の対象)になります。サービスの代表的なものは労働です。自分の労働を貨幣で売る,他人の労働を貨幣で買う,こういうことが可能になってきます。言い換えれば,貨幣と交換されることによって,労働がサービスになってしまうということです。

    能力,才能が貨幣(売り買い)の対象になります。知的な能力,芸能的な能力,その他,自己の能力(あるいはその能力による成果)を貨幣によって売ることができ,他人の能力を貨幣によって買うことができるわけです。これも,言い換えれば,能力や才能の行使が,サービスとして,交換の対象として,理解されるようになるということです。

    権利と言われるような概念が作り出され,例えば,不動産の所有権,パテント,漠然と,信用,人気などが,貨幣の対象とされます。権利のうちでも,不動産の所有権などは分りやすいのですが,今日ではTOBなどと言って,会社の経営権までが売買の対象になる(そこには株券,株主というようなものが,もうひとつ間に入るのですが)。本来は,企業が作りだす物品やサービスが貨幣の(売り買いの)対象だったはずですが,今日は企業自体も売り買いの対象になり,そのことが,だんだん,普通のできごとになりつつあります。

    要するに,存在するすべては,貨幣(貨幣による取引)の対象になりうるという論理で貨幣は発展してきました。とは言いながら,性(売買春),感情(たとえば癒し),臓器,生命自体,これらはまだ人間と結びつけて考えられ,貨幣の対象として扱うことは,少なくとも建前はタブーとされていますが,それらも,いずれ,人間から引き離され,物品やサービスとして貨幣の対象になるでしょう。マルクスにおいては,労働が人間性から引き離されるところが問題にされたのでしたが。

    でもまだ,そこまでは連続的な自然な展開と言えないこともありません。しかし,その次に起こったことは,貨幣自体が貨幣の対象になって,売り買いされることです。それは,為替取引のように,直接他国の貨幣であることもありますし,債権,証券など,いずれ貨幣に還元できる(貨幣に繋がっている)ものの場合もあります。さらにその延長上に,いわゆる,金融商品という,合成された人工物まで登場します。

これは,貨幣が貨幣を買う,貨幣が貨幣の対象になるという,自己反射的機能であり,①から④と本質的に区別される根本的な転回です(言葉でもって言葉について話すというのに似た)。④までは,貨幣の対象は,貨幣以外の,貨幣の外の何かでした。⑤においては,貨幣は貨幣の世界だけで機能し得て,外にある実体はなくてもよいという,いわば空回りが可能になったのです。

 

まとめて言うと,本来貨幣は,交換の手段,道具として,二次的なものであり,事前に存在する,(かたちある)「物体」と交換されるところに特徴があったのです。だから,その対象は商品と呼ばれました。ところが,貨幣概念やそれに伴う市場の拡大とともに,商品の概念がだんだん拡張されて,労働,能力(ともに,人間から切り離せない属性),権利(という作られた概念)も含まれるようになり,ついには,貨幣自体(自分自身)も商品になって,そこでは,タコが自分の足を食うような事態になってきました。

 

 こうして並べてみると,貨幣によって交換されるもの,貨幣の対象といっても,一通りではないことがわかります。それぞれが違った特性と成立の経緯をもつ別ものです。しかしながら,現行の私たちの社会システム(経済システム)は,一方に貨幣をおき,一方に,上に述べたような様々な対象を,それぞれ性質は違うにもかかわらず,貨幣と交換されるものとして,同質,均一なものとして扱っています。それぞれ,性質も,由来も違うものを,一様に,貨幣の対象として扱ってよいのかというのが,まず出てくる批判です。

 

少なくとも,上記の貨幣の対象は2つに分類されます。一つは,現実にあるもの,現実に機能しているもの,実体です。もう一つは,私たち,あるいは,私たちの社会が,仮想として,便宜的に,勝手に作り上げたもの,作られたものです。

 

例えば,①から③は,実際に存在するもの,実体と言えます。①のような目の前に形をもって存在する商品,その拡張として,設計図や情報ソフトの様な,手順を踏めば,一定の現実的効果を得られるようなもの,労働,能力などのサービスは,現実に存在するか,現実の中で機能しますから,今日の経済体制のもとでは,実体としてよいでしょう。

 それに対して,④のような権利は,直接目に見えるものではなく,社会制度として,約束として,私たちの社会を前提として認められる,作られたもの,フィクションであり,⑤の貨幣も,もともと貨幣自体は交換の機能であり,手段,道具ですから,いきなりは,実体とは言えません。ここに,貨幣の対象とされるものに,環境世界や人間に基づいた実体,実在であるものと,人間社会において便宜的に仮想された,フィクションであるもの,の2種類があることになります。

 

 その上で,貨幣が,実体である物品,サービス交換される範囲では,物やサービスには,もともと,実体として,(ときに変動はするにしても)固定的な価値が伴っていますから,貨幣の交換価値もそれに従って,それなりに安定的したものになります。

しかし,貨幣の対象が実体性を持たないものである場合は,交換は仮想の対象との交換ですから,交換の仕方,貨幣の交換価値は,対象の方からは決まりません。要するに,対象ではなく,貨幣の使用者の方の思惑によって決まるのです。例えば,土地の値段ですが,土地自体に値段は付属しません。その社会の,相互の思惑の中で,決まります。債権の値段も,為替相場もしかりです。つまり,そこで行われるのは,思惑の間のゲームなのです。もっとも,そうはいっても,所有権,債権,為替相場も,まわりまわって,実体経済と全く無縁というわけではないでしょう。現実には,それまでの経緯が,その時の周辺の需要状況がどうであるかが,思惑を決める材料として影響はします。しかし,原理的には交換に関わるのは思惑という非実体なのです。

 

もっとも,実体と,フィクションの区別には,微妙なところがあります。実体といったとき,常識的にはわかりますが,正確な定義はし難いところがあるからです。つまり,実体とは,存在物を指すのか,存在物でなくとも,広義に,私たちに何らかの意味で現実的な影響力を持つものまで指してよいのか。一方,フィクションといっても,廻り回って,実体の世界に結びつくものは,ある意味で実体ではないか。例えば,不動産(の値段)も,実際にそれを含んだ,安定した取引が現実に行われるなら,そしてそれが,土地家屋として,私たちの生活に深く関わるなら,また,株券が安定的に,生産のための資本として役立つならば,物品と同じように,実体と認めてよいかも知れません。ただ,その際,フィクションだから,思惑が作用し,安定しにくいのです。

 

 それについては,もっと根本的に,こういうことが考えられます。物品やサービスは,実在するものであり,実体であることはみとめられるでしょう。一方,権利や,貨幣自体には,もともと物品やサービスと同じような実体性はないとしても,貨幣が,それらを含めた全体のシステムの中で,現実に整合的に使用され,ある効果を持つならば,(それらを含めて取引が実際に行われているとすれば),その整合性の中では,それらも実体とみなされてよい,そういう論理です。実体とは,実は,もとからあるものである,実在である,不変である,というような,固い基盤に基づくものではなく,もう少し柔軟に,そういう整合性に基づくものではないかという考え方です(よく考えてみると前者の実体性も,それらを含む全体の整合性を必要としています)。これは,世界の原理は,実体性か,整合性かという未解決の哲学的問題につながることがらです。このように考えた場合は,問題は,対象が,実体かそうでないか,実体でないものは,貨幣の対象から外すということではなく,そこにあるものを,貨幣の対象としてどこまで認めるのが,社会生活にとって,便宜か,適切か,害がないか,という線引きの問題になります。

 

 現今の社会(経済社会)は,実体と仮想の両方を貨幣の対象と認めて,それらを,同じように貨幣で制御しようとします。そこでは,貨幣は,実体世界と,仮想世界の,両方の必要条件になっています。つまり,貨幣があって,その中で,実体,仮想,どちらにしても,貨幣の対象(ものの世界)は扱われるということです。ということは,両者が区別されずに,同じように扱われる分けです(仮想の世界も貨幣のもとでは同じくものとして扱われる)。

ですが,本来は,貨幣は,実体世界の十分条件だったわけです(実体世界が貨幣の必要条件)。つまり,現物があって,その中で貨幣は機能した,貨幣は,現物の取引の外には出ませんでした。これが本来です。

しかし,現今,貨幣の世界は,仮想の世界をもその中に取り込んでいます(つまり,仮想の世界を,実体の世界と同じとして,実体の世界として扱います)。言い換えれば,貨幣の世界の拡張は,仮想の世界を認めることによって成立します。

「貨幣は,仮想の世界を実体の世界とする」ということは,裏を返せば,「貨幣は実体の世界を仮想の世界にする」ということです。つまり,貨幣の機能が拡張されることによって,私たちの世界は,本来,実体の世界であったのに,仮想の世界になってしまいました。仮想の世界ですから,私たちの行為は,すべて,ゲームをやっていることと同じになります。

本来,私たちの生活している世界は,実体の世界であるし,あるべきなのです。でも,貨幣は,実体の世界に,仮想の世界を引き入れました。(仮想をも,交換の対象にしてしまいました,そして,その原理は,思惑ということになります)。貨幣に主導されて,私たちは,実体と仮想の入り混じった世界に生きることになった,しかし,実体と仮想は両立しがたいものです。いつか矛盾が顕在し,破たんします。そこに金融に由来する,落とし穴があるのです。

 

それを避けるためにはどうしたらよいでしょうか。いわば,初心に戻る,「貨幣を,実体であるもののみを対象とする,交換の手段,道具にすぎない」と,再確認し,その範囲に限定することです。手段,道具である貨幣が,それ自体の役割を超えて拡張され,実体を超えて機能しだすと,どうしても,仮想であるものを,対象として,実体として引きこむことになりますから,それを避けることです。ただ,仮想的なものが無意味だというのではありません。仮想なものにも役割はあります。不動産の売買も,債券の発行も,貿易振興のための為替取引も,経済活動の工夫でした。ただ,それらはあくまでも仮想なものだと承知し,実体化しないことです。また,貨幣についても,手段,道具であるとして,それ自体を,実体化,目的化しないことです。

 

 以上,貨幣について,素人として,論じましたが,まことに不十分なものになってしまいました。難しかった。ただ私がここしばらく考え,言いたかったことは,今日の社会の躓きのもとは,金融とマーケティング思考にあるということで,その主旨は,本来,あることがらに対する,手段,道具であった,貨幣やマーケティングが,立場を逆転して,手段や道具に合うように,本体の方を措定しようとしだした,言い換えれば,貨幣やマーケティングに都合がよいように,仮想の世界を考えておいて,それを実体として扱おうとしている,そこに,今日の社会の躓きの石があるということです。したがって,道具や,手段を,本来の働きに戻すことが大切だ,というにあります。不十分のままですが,とにかく問題提起しました。

 

貨幣については,以上の他に,次の問題があります。

貨幣によって,全ての対象が,一つのものにされてしまうことです。例えば,物品についても,物品の種類はいろいろで,自分にとっての必要度,利用価値はそれぞれ違うのですが,その違いは捨象されて,貨幣という一つのものにされてしまうことです(貨幣に示された,数字になってしまうのです)。そして,すべての物品が(もっと広くはすべての対象について),貨幣の額面に従って,序列化が生じることです。一元化と,序列の成立,これがもう一つの貨幣の役割です。

これも,現今の社会生活のもう一つの躓きの石と思われますが,今回は示すだけにしておきます。

 

今日の世界は,

    全てを貨幣の対象とし,

    全てを貨幣という場で一元化し,

    貨幣の数量性で,すべてのものが序列化出来ることになり(価値の序列化),

    仮想の世界が(フィクションが),貨幣の対象とされることで,実体化される(物象化)

そこに落とし穴があるのです。

それを避けるためには,仮想の世界を仮想の世界と認めること,貨幣を交換の手段,道具と承知すること,そこにあります。仮想の世界の設定も,貨幣も,現実の生活のための手段,道具なのです。

 

最後に,私の主旨を理解してもらうべく,貨幣について,下世話な話を3つ加えておきます。

(1)      

貨幣の機能が拡張され,これまでの世界に,仮想な世界が付け加えられ,そこに躓きの石があると言いました。次の喩はどうでしょうか。

ある社会があって,そこでは,皆が地道に生活していたとします。そこへ,あるとき,博徒が入り込んできた。そして,賭博を行い,それを広めた(一応賭博はここでは合法的とします)。地道な世界でも,賭博の世界でも,貨幣は同じです。しかし,得るに至った経緯が違う。一方は,実体との交換に基づく,実体に裏打ちされた貨幣,一方は,思惑に基づく,裏打ちのない仮想の貨幣です。しかし,賭博で得た貨幣は,地道な世界でも使われ,そのことによって,全体的な整合性は保ちますが,しかし,内容的に違うこの2種類の貨幣の混用は,いずれ,この世界に混乱を招き,世界を壊します。

(2)     

現今アベノミクスということで,株価が上昇しました。その折,テレビのニュースで,初老の紳士が,兜町の証券会社のウィンドーの前でインタビューを受けて,「そこそこ,儲けさせてもらいました。やはり株が上がらなければ日本は元気にならない」などと,得々と語っていました。こういう年配の人が,無邪気に,こういう言い方をするのに,ちょっとびっくりしました。一方で,車寅次郎氏は言っています。「人間は地道に暮さなきゃいけねえ。額に汗して,油まみれになって働かなきゃいけねんだ」(「望郷篇」)。

(3)

 例えば,株の取引は,全く思惑に基づいて行われています。今回,アベノミクス関連で株価が動き,それについて,・・・アナリストなど名乗る人が,上ったのはこういう理由,下がったのはこういう理由,今後も,これこれを原因として,上るだろう,下がるだろうなどと,喧しく発言しています。現実に売り買いする人も,こういう見解を参考に,また,似たようなことを自分で考えて,売り買いしているのでしょう。

因果性には,実体的な因果性というのがあって,例えば,金づちで叩いたら茶碗が割れたなどは,そういうものです。しかし株の売買の,理由,原因とされるものはそういうものではなく,仮想の因果性で,ただ,アメリカ発表のある指数が下がったときは,売りになるとか買いになるとか,思い込んでいるだけです。それでもなぜ当たるかというと,それは作り物の幻想ですが,皆がそれに従って動くからです。皆がそれに合わせて動くから,それが,現実的な規則になってしまうのです。因果法則でもなんでもないけれど,皆がそれに従うから,因果法則になってしまう,そういうものです。

仮想の世界は,思惑の世界であって,しかしながら,皆がその思惑に従って動くと(なれ合いということですが),その思惑が実体と思われるようになる,貨幣に絡んで,株取引も,為替取引も,そういう舞台のものではないでしょうか。