ホームの写真に,時節がら,小学唱歌「朧月夜」の歌詞に合わせて撮りたかったのですが,私の技量が邪魔して,イメージが違うようです。なぜ「朧月夜」なのか,私は,「朧月夜」と「みかんの花咲く丘」を聞くと,郷愁を感ずるのです。抒情的に,センチメンタルになるのです。みなさんそれぞれにそういう歌があるのでしょう。40年,50年前のNHKラジオ放送で,歌とその歌にまつらう想い出を投稿する番組がありました。最初はサトウハチローが司会のもの(ハチロー翁は司会者でありながら余計なことは何も言わないのです),次に,「にっぽんのメロディ」,「当マイクロフォン」のアナウンサー中西龍が,あの得意の調子でよむものでした。「歌に思い出が寄り添い,想い出に歌は語りかけ,そのようにして歳月は静かに流れて行きます。・・・」というやつです。
小学唱歌は,国民が皆知っていて,一部を言えば,言わない部分も浮かんで,共通の話題になる,そこがよいところです。「朧月夜」,作詩は高野辰之(長野県中野市出身)で,同じ高野の作詞になるものに,「春の小川」や,近時いろいろと話題になることの多い「故郷」などあります。
「故郷」について,私が気になるのは,次の四番の歌詞です。
こころざしをはたして,
いつの日にか帰らん,
山は青き故郷
水は清き故郷
「志を果たして」と言います,ところで,志とは何でしょうか。第一には,こうなりたい,このようにしたいという意志の,持続です。「こころに目指すところ」です。それがないと空洞化した人生ということになります。しかし,志には,もう一つの意味があります。それは正直さを保つということです。こころざしを果たすのに,まっとうな手段でやるということです。目的は達成したが,手段が怪しかった,何でもありでやった,これではこころざしとは言えないのです。そこが難しい。
その志を歌った歌として,私が,カラオケで歌いたいのは,次です。
故郷(クニ)を出るとき,もって来た
大きな夢を,盃に,
そっと浮かべて,漏らすため息,
チャンチキおけさ
おけさ涙で,曇る月
ご存知,三波春夫の「チャンチキおけさ」の三番です。高度成長期をまたいで,その頃成人していた者には,こちらもよく分ります。
まことに,生命はそれなりに全うできても,志を全うすることは,全員に出来ることではありません。だから,多くは,「いつまでも故郷に戻れなかったり」,「そっと浮かべて漏らすため息」となるのです。しかしそこがまた,人生の抒情です。
志について,もうひとつ。
棟方志功は,青森市の出身です。市内の,長島小学校(志功の当時は尋常小学校など言ったのでしょうが)の古い卒業生です。晩年,頼まれて,石碑にすべく,その小学校に書を贈りました。次の4字です。
汝我志磨
「汝と我,志を磨く」,これで「ナガシマ」と読ませます。
私が言いたいのは,学校というのは,まさにこういうところだということです。学校は,何よりも,立志の場所であること。そして,それが,秘かに自分だけのものというのでなく,我と汝の関係の中で磨かれ,公共性を持ったものになっていく,そこです。
私は,かつて,大学の父兄会で,青森を訪ねた折,市内の長島小学校に,この石碑を見に行ってきました。校門の右手にあります。
最後に,志に関して,厳しい詩があります。
茨木のり子「自分の感受性くらい」です。
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもがひよわな志にすぎなかった