謝るということ―双方の立場から考える

 

ある同学の先輩から,石橋湛山記念財団発行の『自由思想』(季刊)という雑誌を送っていただいている。私にとっては非常に啓発的である。その,今年の2月号に,今回,中国大使を退任した,丹羽宇一郎氏に対するインタビュー記事がある。ことは,日中間の外交問題,に関わるのだが,外交,政治問題になると,ややこしくなって,この場にふさわしくないので,そういう要素を抜いて,人間関係の一般論として,考えてもらうことにして,いくつか,紹介したい。

 

1は,人に謝ることについてである。丹羽氏は言う。(よく,もう謝ったじゃないかというような発言があるが),「でも,それは謝る方が謝ったじゃないかという権利はない。謝ってもらう方が「もういいよ」というのはあっても,謝っている方が「おまえ謝ったじゃないか,何か文句あるか」と,それはないですよ。」

 

2に,こちらに何かしらでも瑕疵があって,謝らなくてはいけない状況にあったとき,理屈を言ってしまうと,たとえその理屈は正しかったとしても,さらに反発を招き, その流れは変えられず,話は決着しない。その例として,丹羽氏は,(例えば,従軍慰安婦問題について,(アメリカが非難しているとして,それに対して)「おまえのところは偉そうなことを言うけれども,150年前まで奴隷制度があったのだから,奴隷なんていったら,慰安婦よりももっと悪いじゃないか,なんて言ったら,ぶったたかれますよ。」

 

要するに,外交とは,(理不尽なところもあり,忍ばなければならないこともある)こういうものだということである。理屈によるのでもなく,軍事力によるのでもない,第3の道である。

 

3に,土下座について,「中国はメンツのくにですよ。何が大事かって,サッカーの岡田さんが言ってたじゃない,まけたら土下座しろと。彼らには絶対にできない。そうしたら必死になって勝とうとする。メンツですよ。日本人は簡単に,土下座なんかタダだからと考える人もいる」。最後の文言が面白い。たしかに,日本人はこの頃,簡単に土下座する。経営者もそうだし,政治家も票を下さいと土下座する。本当は土下座とは,一生に一回,あるいは絶対にしないものであったから,土下座の価値もあったのだが,こう頻繁になされると,土下座のインフレがおこり,だんだん利かなくなる。この,目先の結果がよければ,何でもやる,ましてや金がかからないものは,ウェルカムである,これが,マーケティング思考である。結果を取って,価値(道義を)捨てる,土下座が利かなくなったら,次の手を見つけて移る(例えば自殺のような)。禁じ手も何のこだわりもなく使う,こういう世界である。さらなる例として,こんなのもそうである。「二度とやらない」(これは字義通りとれば重たい言葉である)といってその場を収めて,そういう者に限って二度でも三度でもやる。

 

ここからは,私の話です。

人には,ここまでは我慢できるが,ここからは我慢できないという,閾値というか,境界線があるのではないか。境界線までは,忍耐や,社交で我慢できるが,そこを超えるとダメという境界である。その境界線の位置は人によって,文化によって違う。2つ示そう。

(1) 居酒屋で,若者が飲んでいた。隣へ初老の男が座って,若者にからみだした。おまえはだらしがない,バカだなど言われていた。でも若者は,それなりに相手して,キレなかった。しかしある一瞬についにキレた。何にキレたかというと「おまえのおやじより,オレの方が信用がある」と言われたからだ。つまり,自分のことについてはかなり我慢ができる,しかし,身内のことを言われると怒らざるを得ないということである。今は,身内のことでもキレない若者が増えたかもしれないが,ある時代まではそうであった。

(2) 中学時代にいじめられた生徒がいた。その時は悔しかったが,10年経って,社会人になった頃は,その感情はかなり薄くなっていた。同窓会があって,相手と会っても,殴られたことも,それなりに許せる心境だった。しかし,そこで,加害者や,教員から,その当時いじめは無く,ちょっとふざけただけだ,おまえの思いすごしだったのだ,と言われたとき,許せなくなった。要するに,ことがらは,時と共に,風化するが(治まるが),その意味付けを変えられると,治まらないということである。

 

日中,日韓の戦争責任をめぐる議論の底には,こんなことがあるのではないか。

(侵略されたことによる被害は許せるが,侵略がなかったといわれると,気持ちが治まらない。謝って,賠償も援助もしているのだから,もう終わりだろうと相手から言われると治まらない。さあ,ここで,理屈(正義論?,ナショナリズム)や軍事(軍事同盟,国防軍創設)で対応しないで,外交ができるかどうかである)。