覚悟の問題ー人は殺生しなければ生きていけない

 

老人として,人なみに,深夜放送(ラジオ深夜便)を聴いています。別に寝つきが悪いわけではないのですが,習慣的に,イヤホーンを耳に入れたまま,興味ある話題だけ目覚めて,多くはうつらうつら,というわけです。3月初めごろの放送で,今期の深夜便エッセイコンクール入選作のアナウンサーによる朗読がありました。その中で気になったのが次です。

 

視覚障害者のAさん(女性)の体験ですが,Aさんの父親が,老人として,「胃ろう」を受けなければ,生きられない旨,医者から告げられました。Aさんは「胃ろう」について十分知らなかったので,ネットで検索しました(今は,視覚に障害があっても,点字,音声に変換してパソコンが利用できます)。そしたら,花子という12歳の少女(?)が胃ろうによって命をつないでいるという話がありました。迷っていたAさんには,12歳の少女が気の毒にと思うと同時に,一瞬,重要な情報だったのですが,実は後で分ったことは,胃ろうを受けたのは,犬であって,それは動物病院のホームページだったのです。Aさんにはそのことが最初は通じなかったのです。Aさんの父親は結局胃ろうは受けませんでした。(本文は,雑誌『NHKラジオ深夜便』3月号にあります。)

 

この話にどういう感想を持つかですが,私は,大いに違和感を覚えるのです。それは2つあります。

1)   情報が視覚障害者を誤解させるような書き方をされていたこと。もっと言えば,Aさんが間違って受け取ったのは,その情報が,犬に対しても,人に対すると同じような表現をしていたからではないかということ。

2)   (ここでは胃ろうに関してですが,)人と,動物と同じ扱いをしていること。もっと言えば,人の命も,ペットの命も,同等なものとして扱っていること。

要するに,このウェッブ情報は,同じことですが,その作成者は,①表現において,②生命の何たるかにおいて,人と動物を区別しない思考をしているということです。

 

人とペットを区別しないという,こういった傾向は,今日,一般的なようです。

例えば,私の家の前を,いわゆる犬の散歩族が多く通るのですが,その人たちは,たがいに行き会うと,自分の犬を指して,「この子は」など言うのです(これはペットに対する今では一般的な言い方ですが)。そういうのを聞くと,つい,突っ込みたくなります。「犬が子なら,その親である飼い主も犬か?」。でもよく見ると多くの場合,そうではありません。呼び方の問題は,言葉の綾として,それだけのことかも知れませんが,しかし,命の場合は,もう少し,ややこしい問題があります。

 

ペットの犬に胃ろうということは,(胃ろうとは,人間に対する医療技術であるとした場合,)犬の命と人の命を,同等としていることになります。また,事実,そういう感覚を持つ人は,今日,多いでしょう(命は一つ,命は何ものにも代えがたい)。しかし,人と,人以外の動物の関係は,ペットをかわいがって癒されるというようなのどかなものを超えて,もう少し,深刻なものです。それは,人は動物を食べて生きているという,事実です。屠殺場の,ブタに,ウシに,胃ろうをしたという話は聞いたことがありません。現実に行われているのは,延命の全く反対のことがらなのです。この事実の前で,犬の(ペットの)延命はつじつまが合うかということなのです。

 

つまり,動物には,一方に,出来れば延命したいほど大切な命を持つとされる一群と,一方に,命云々より食材であればよいという一群があって,そこに線引きがなされるわけです。ただ,その線をどこに引くかという問題と,その根拠です。上記のネットによる線引き,あるいは,今,一般的な,通俗な線引きでは,線の左に,人と,それに加えて,犬,猫,その他のいわゆるペットを,線の一方に,そして,もう一方には,ブタ,ウシ,ニワトリ,魚類,他の,食材である一群がきます(実際は,同じ,犬,猫でも,野良は,線から押し出されますが)。この線引きは,私には,恣意的で,人間中心の感情論,ご都合主義のように思えるのです。ペットの命は,人と同じように大切にしようとしながら,人は動物の肉を食している(つまり,ブタ,ウシの命は遠慮なく断つ),この二つは両立しないのです。

 

結論を言えば,私は,この線引きは,こちら側には,人だけ,動物は(ペットも入れて)はすべて,線外に置くべきだと思うのです。それは,人は,他の動物(獣や魚,あるいは植物も入れて,他の生命)の犠牲の上に生きているという事実によります。

人が他の動物を食するという事実は,決して,人間の権利や,特権などではありません。また,人は神の似姿として創造され,他はそのために存在するというようなことでもないのです。人が動物を食することは,そういった,本性上の,自然のことがらではなく,そうではなくて,人の覚悟の問題なのです。自覚してやるべきことなのです。そのようにして人間は生きるほかないという,覚悟なのです。本当は,他の生命を犠牲にすることなく,己の生命を持続できればよいのですが,そうはいかない。他を犠牲にすることを選ばなければいけない。だから覚悟の問題なのです。

 

だから,覚悟のない,犬や猫を,疑似人間として,こちらの仲間に入れてはいけないのです。好きだとか,かわいそうだという,感情の問題ではないのです。ことの重さを考えたら,勝手に自分の気に入ったもの(犬や猫)を選んで,自分の都合で,自分の領域にいれることはできないはずです(分りやすく言えば,ウシやブタに申し訳ない)。線引きが覚悟の問題であるなら,勝手に犬や猫を,人間の領域に引き入れてはいけないのです。

 

つまり,人という生命は,他の動物の生命を犠牲にしなければ生きていけない。一方で,人として,そういうことはしたくない,仏教で言えば,殺生戒ですが,この矛盾する2つを,どう調整し,納得するか,未だ解けていない大きな問題とも言えます。それについて,次のようなことが,とりあえず言えるように思います。

1)   殺生はなるべく最小にする(無駄な殺生はしない)

2)   殺生しなければ生きていけないという人の本質を,隠したり,ごまかしたりしないで,きちんと見つめる。

後者から出てくる結論が,殺生は覚悟,自覚の問題である,ことです。分りやすく言えば,自己責任の問題である。ですから,神が認めた,神に由来するとか,すぐれた種としての人間の権利(本性)である,ということではありません。また,何も考えずに,成り行き任せですむという,軽い問題でもありません。なぜなら,この線引きを,覚悟によるものとしてではなく,恣意的な,したがって,ご都合主義的なものとすると,(そのような形で,人間以外の者に対する殺生を曖昧にして置くと),今度は,線引きはご都合主義だから,人間の中で,生命を大切にしなければならない人間と,殺してもよい人間の区別がされてくるからです。

 

殺生が覚悟の問題であるとは,殺生をするなということでもなく,殺生を無闇としてよいということでもありません。自分の問題としてやれということです。(それが生きる力ということです。いっとき,初等教育で,生きる力の養成ということが言われましたが,いまも中心テーマかもしれませんが,それは,決して要領よく生きろということではなく,そういう場面で,自分の問題として,覚悟してやれ,ということだろうと思います)。ですから,人は,肉も食べますし,魚も殺します。しかし,それは,覚悟の上で,承知してやったことでなければなりません。

 

この文の最初の話は,殺生でなくて,その反対の延命でした。私が指摘したかったのは,人はともかく,ペットに延命をほどこすことに対する違和感でした(人と延命の問題はまた別な問題として残されます)。それは裏返せば,ウシやブタは殺しても,ペットは殺さないということに対する違和感です。それは,そこに,人間の覚悟が見えないということです。ご都合主義だけが見える,しかし,殺生とは,人が生きるということで(生きる力),それは,もっと根源的な問題なのです。要するに,動物を殺すについても,かわいがるについても,同様に覚悟を持ってやれ,ということです。

 

この問題をはっきりさせておかないと,例えば,人と犬が今,死に面しており,助けられるのは一つだけという場面で,迷いなく人の方を救うという強さが,でてきません。それが生きる力で,人間には必要なのです。感情の問題にしてはいけないので,これは,すぐれて,意志あるいは知力の問題なのです。その辺が,現今,曖昧になっている。それが違和感の元です。

 

ここまで述べたことは

1)   犬猫に延命をほどこすことにすると,同じ原理で,ブタ牛にも延命をほどこさねばならないことになり,そうすると,人は,動物を食することができないことになる。

2)   殺生は感情問題として論ずるべきではなく,人の覚悟の問題として扱うべきである。

3)   そこに,殺生は,人にとって避けられない,しかし,無闇と殺生はしない,という倫理が出てくる。

 

人と他の動物,あるいはもう少し大きく,人と動植物,人と環境が,どう折り合うかは,大きな問題です。しかし,ここまでの議論は,人と環境を,対立するものとしてとらえ,その上で,両者を人の覚悟の問題だとして,結びつけようとしているようです。もっと,直接,両者を調和させるような道はないのでしょうか。次の二つのエピソードを,参考に加えておきます。そこには,人と環境を分けておいて,くっつけるのではなく,根源的に一体のものとして捉える,ただし,感情に駆られて,全てを,分別もなく,どろどろとそこに流し込むのではなく,覚悟を持って,分別を持って,その上で,根源では一体とする,そういう姿勢が見えます。ついでに言えば,慈悲心とは,単なる同情のことではなく,この延長上にあるものです。

 

(1) 良寛さんにまつわる逸話です。

良寛和尚は昆布巻きの鰊が好物で,あるとき茶店でおいしそうに食べていました。そこへ,持戒堅固らしいお坊さんが入ってきて,それを見て,「出家がそのような生臭ものを食して,それでも仏弟子か」と強く非難しました。それでも良寛和尚は,さして驚いた風もなく「これはこれは」と頭を下げて,そのまま鰊を食べてしまいました。その夜に,偶然,その坊さんと良寛和尚は,同じ部屋の一つの蚊帳の中に泊まることになりました。蚊帳が破れていたらしく,蚊が入ってきて,それに蚤もいて,チクチクと刺す。その坊さんはひと晩中眠れなかったのですが,良寛和尚の方は熟睡している。次の朝,坊さんは良寛和尚に,「あなたは,あんな,蚊や蚤のなかで,よく眠れるものだ」といいましたら,和尚は,「わしは,食うのも平気,食われるのも平気」とニッコリほほ笑んで立ちさりました。(『岩本泰波先生記念文集』「食うも平気,食われるも平気―廻向の道理―」参照)

 

(2) かなり昔のNHKテレビのドキュメンタリー番組からの話です。

いささか,妙好人伝ふうの話ですが,ある山里で,Aさんは猟師を生業としていました。月に何日か山に入って,生活に必要なだけのイノシシを捉えて殺し,背中に背負って戻るという生活でした。一方,Aさんは,家の周辺に畑を作っていました。時々イノシシが山から下りてきて,作物を食って,荒らして戻って行きます。Aさんはそれを見ながら,「若い衆,ゆっくり食べて帰れや」と言って,追いもせず,邪魔もしませんでした。